石原慎太郎は、裕次郎と2歳違いの兄弟である。かたや、芥川賞作家から政治家に上り詰めた慎太郎。かたや、昭和を代表する俳優となった裕次郎。

「のぼせて言うわけじゃないけれど、まさに日本が転換期にあった昭和30年代を飾ったのは私と弟(裕次郎)ですよ。それだけの自負がある」

「週刊新潮」のインタビューでこう答え、自身と裕次郎について「時代と一緒に肩を組んで遊んでいる感覚」と表現していた。(全3回の3回目/#1#2から続く)

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石原裕次郎(右)と石原慎太郎(左) ©︎文藝春秋

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兄・石原慎太郎との関係

 誰よりも、裕次郎のスター性を認めていたのは、慎太郎であり、支援もかかさなかった。1968年の「黒部の太陽」では、五社協定の壁により映画製作を断念しかけた裕次郎を助けるため、関西電力に連絡を取り、再びプランを動かした。また、1979年スタートの「西部警察」では、裕次郎に「兄貴さ、中古でいいから2、30台、ぶっ壊していいクルマをもらってくれないか?」と頼まれ、日産の伝手を頼み、調達もしている。「黒部の太陽」再開のときは特に、裕次郎は喜び、慎太郎にこう言ったという。

「俺たち2人で一発ぶっくらわしゃあ、どんなヤツだってダメになっちゃうんだよ」(「石原裕次郎は強くてシャイだった」創刊95周年記念「文藝春秋」2018年1月号)

 しかし、その裏側で、病気、けがに悩まされた様子を、誰よりも見ているのも、やはり慎太郎だった。生まれつき肝臓が弱く、何と高校の頃には、黄疸が出ていた。バスケットでオリンピックを目指していたが、ケガで断念。その後、スターダムに乗ったあとの骨折、肺結核、舌がん、解離性大動脈瘤、肝臓がんと続く。

 名声の影で病魔に取りつかれ、のたうち回る姿を見ていたからこそ、「告知」を考えた慎太郎だったが、小林専務による

「いや、お兄さん、ダメです。あの人はね、あれだけ苦しんできたんだから、『あっ、わかった、それならいいや』って、パッと飛び下りて死んじゃいますよ」(「文藝春秋」鼎談)

 という説得が効いた。

 全員が危惧したのは、裕次郎が自ら命を絶つことだった。