裕次郎の死から10年後…『弟』を出版
石原慎太郎は、彼の死から約10年経った1996年、私小説『弟』(幻冬舎)を出版。生い立ちから裕次郎の輝かしい活動も記しているが、何よりページを割かれているのは、病との戦いだ。
「弟が苦しむ姿を一番見てきたという自負がある」という思いを強く感じる。
亡くなってからも裕次郎への想いは「喪失」ではなく、「不在」。本編を書き終えた瞬間、慎太郎は一人で思わずこう呟いてしまったという。
「お前どこでなにをしてるんだ、おい」
晩年、慎太郎自身がすい臓がん闘病の様子などを綴った手記には、「肝臓癌で苦しみ抜いて死んだ弟の裕次郎を思い起こさぬわけにはいかなかった」とあった(「文藝春秋」2020年7月号)。
もう一人、その苦しみを見てきたまき子夫人は、結婚して初めてのお正月を迎えた年に裕次郎がスキー中の事故で右足を複雑骨折。そこから、繰り返す病魔を横で支え、奔走する日々だった。
没後30周年、文藝春秋にて慎太郎と石原プロの金宇常務と行った鼎談では、
「結婚生活は、普通の夫婦の何分の1でしたよ。裕さんが元気なときは、ほとんど仕事に取られましたでしょう。映画に命を懸けていましたから。それ以外は病気ですからね。わたくしは母親か、姉か、看護人か、料理人か」
と語り、慎太郎も、
「母親だ。あなた、ほんとに母親だった」
と答えている(前出「文藝春秋」2018年1月号)。
「俺が死んだらプロダクションをたたみなさい」
8月11日に行われた本葬には、3万5000人が参列。1999年に総持寺で行われた十三回忌法要では、20万人のファンが殺到し大混乱した。そこで、ファンを招いての最後の法事である2009年の二十三回忌では、東京・国立競技場に臨時の総持寺を建てるという規格外の行動に出る。それでも全国から約12万人のファンが訪れ、長蛇の列ができたという。
石原プロモーションについては、裕次郎は「俺が死んだらプロダクションをたたみなさい」という遺言を残していた。しかし、まき子夫人が所属スタッフや俳優たちに言い出せず、幕を下ろしたのは、石原裕次郎が亡くなって34年後の2021年、1月7日であった。石原プロ解散を公表したのはその前年、裕次郎の命日である2020年7月17日。二代目代表取締役を継いだ渡哲也は、発表から1か月後、8月10日に肺炎で亡くなった。
日本中のボスとして君臨した石原裕次郎。昭和の夢そのもののような存在だった。石原良純の寄稿「石原裕次郎 いつも何かに耐えていた」(「文藝春秋」2022年1月号)には、こんな文章が綴られている。
「石原裕次郎は、1億人の夢を抱えてしまった人間でした。戦後から高度経済成長期に突入する時代の流れの中で、国民みんなが裕次郎を愛し、ともに歩んできました。(中略)そんな人間は、自分が夢であり続けなければいけないことを分かっている。だから、その夢を壊さないようにブレないし動じない。それが日本中から愛された男の宿命でもあったのでしょう」
(文中敬称略)