もう一度、映画を撮りたい
肝臓がん発覚後は、家族、そして石原プロの、裕次郎の生きる希望をつなぐための戦いが始まる。
裕次郎は、解離性大動脈瘤からの生還の際の、日本中の熱狂を見て、映画熱にもう一度火が着いていた。
「この熱狂を劇場に引っ張っていけないか」
裕次郎が白羽の矢を立てたのは、倉本聰である。渡たちは、裕次郎の体調から、この企画が実現できないことを感じながら、進め続けてしまった。
さまざまな条件が重なり、倉本聰は小林専務を通じて断ったが、その後、渡哲也から、巻き込んでしまったことを謝罪され、裕次郎が長くないことを打ち明けられている。このときのエピソードは、倉本聰の著書『破れ星、燃えた』(幻冬舎)に詳しい。
石原裕次郎は、自身ががんであることを知っていたのだろうか。
渡哲也は「知らなかったと思いますね。裕次郎さんはとても生きることに前向きで、お医者さんの言うことを守る。それでもなかなかよくならない。気分によっては、わがままな態度もありました。もしがんと知っていたら、多分そんな態度をしなかっただろうと思うんですけどね」
と特別番組で語っている。
慎太郎は、インタビューでこう話している。
「彼は知っていた。看取るほうも看取られる方も、騙しあいを演じていたんだね」
「太陽にほえろ!」最終回
石原裕次郎、最後のテレビ出演は、1986年11月14日、「太陽にほえろ!」の最終回(第718話「そして又、ボスと共に」)だ。
裕次郎が倒れ長期療養のため欠場し、ボス代理に渡哲也が就任していたが、この回に再び出演できることとなり、そのタイミングで、約15年続いたドラマ自体を終えることになった。
撮影の日も裕次郎は病床から撮影現場に赴いた。普段は脚本のセリフを一言一句変えない彼が、この日はアドリブを願い出て、語ったのは、命の重さだ。
「ずいぶん、部下をなくしましたよ。部下の命は俺の命。命って言うのは、本当に尊いもんだよね」
熱演のあと、撮影後はすぐ病院に直行している。
症状はすでにかなり悪化していた。1987年2月に行われた「太陽にほえろ!」の打ち上げパーティーには裕次郎の姿はなく、彼がせめてと用意した、乾杯の挨拶のテープが流された。
「ご心配とご迷惑ばかりかけっぱなしでした。体調を整えて、また出直します。その節は、また出演者の方と、違う仕事場で、また違う職場で、お会いできることと思います。
皆様方、本当に長い間、ありがとうございました。遠く、ハワイの空から、私も乾杯させていただきます。『「太陽にほえろ」に、乾杯!』」
そして、5か月後の7月17日、石原裕次郎は52歳でこの世を去った。