認知症の母親がようやく施設へ入所し、一息つけると思ったのも束の間、今度は自分の乳がんが発覚し、闘病生活がスタートした――。
『介護のうしろから「がん」が来た!』(集英社文庫、2022年)は、作家・篠田節子さんのそんな実体験を綴ったエッセイだ。ここでは同書より一部を抜粋して紹介する。
20年以上もの間、自宅で一人介護を続けた篠田さんが、母を老健(老人保健施設)に入所させることができた経緯とは……。(全4回の4回目/最初から読む)
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母の腹痛騒動
一昨年の11月のこと、身体に関しては極めて頑健な母がお腹の張りを訴えた。
よくあることだった。認知症で満腹感がなくなり驚くほど食べる。誰かが昼夜そばにいて厳しく管理すれば別だが、自分で小銭入りの財布を持っており、台所には大きな冷蔵庫もある。
「食うな、食うな、とばかり。あんたと居たら、あたしは飢え死にする。いつもこんなにお腹を空かせているのに」と四六時中叫ばれながら何とかやってきた。それでも気を抜くと、深夜、明け方に腹痛を訴えて、救急車を呼んだりタクシーで病院に乗り付けるといったことを何度か繰り返していた。
ただその日は昼間でもあり、かかりつけ病院に行った。
腹痛がひどく待合室で座っていられない状態だったためにすぐに診療室に入れてもらい、混んでいたので病棟の先生が下りてきて診てくださった。
母のお腹のレントゲン写真を一目見た先生は「イレウスのおそれがある。帰宅させたら危ない。寝ていて吐いたりしたら窒息するし、誤嚥性肺炎を起こす」と入院を勧めた。
チャンス、と思った。一晩、楽できる。予想外に重症だった母の身体を心配する余裕もなくなっていたのだ。
そのとき慌てたように外来の看護師さんが駆け寄ってきて耳打ちした。
「あの、ここでお母様を入院させたら、もうご自宅で生活するのは無理になりますよ」
入院によって認知症が進行することを心配してくれたのだ。
「それに私たちはお母様のことはよく存じていますよ。病棟の看護師は知りませんから」
確かに。先生の前で少し吐いた後、母はすっきりしてしまい、数分前の腹痛のことを忘れ「早く帰ろうよ」と叫んでいる。この調子では病棟の看護師さんたちの手を焼かせるだろう。