大学の講堂でピアノを弾いていた大林監督
―― 大林監督とどのように出会ったのでしょうか?
大林恭子(以下、恭子) 監督の方が成城大学の1年先輩ですね。あの頃は生徒数がすごく少なくて、すごくいい学校だったんです。私は文学部の英文科で、監督は映画コース。でも、いつも監督は講堂でグランドピアノを弾いていたの。それを私の友達なんかとみんなで聞きに行って、いつの間にかみんなで一緒に散歩をするようになって。それから、19歳から62年間ずっと一緒でした。
―― きっかけはピアノなんですね。
恭子 そうです。2歳ぐらいからお家のピアノを弾いていたみたいで。別に習っているわけじゃないんですよ。だから、最初から自己流なんですね。それがすごく素敵でした。
―― 弾いている曲はクラシックなんですか?
恭子 自分で作曲しているみたいな曲も。ショパンとかのクラシックも多かったです。
―― その頃、すでに大林さんは8ミリ映画を撮っていらっしゃったんですか?
恭子 そうですね。私と知り合う前に福永武彦さんの『青春・雲』という最初の小説、それを8ミリで撮っていたみたい(注1)。のちに大林の父から聞いたんですけれども、お父さまが既にお医者さん仲間で8ミリを回していたんですね。その8ミリキャメラをもらって上京したそうです。
―― 初めて参加したのが『絵の中の少女』(注2)ですね。恭子さんは主演女優です。
恭子 (笑)そうですね。
―― 大林さんから「次の映画に出てください」と言われたんですか?
恭子 みんな兄弟みたいに付き合ってましたから、私のお友達も一緒にみんな出てます。私の友達が福島出身だったから、会津の雑木林で撮ったんです。
―― 皆さんでそちらに行ったんですね。あの作品では主人公の思い出の中の少女と、絵に描かれる少女の2役を演じられました。
恭子 被写体としては、恥ずかしがり屋なのであまりいい被写体じゃなかったと思うんですけど、なぜかいつも一緒でしたから。
―― 同じ年に『だんだんこ』(注3)があったんですか。
恭子 監督が砧のアパートに居たことがあるんですけど、そのアパートは早坂文雄さんという黒澤映画の音楽家のお嬢さんたちがやっているアパートで、なぜか結構アーティストが住んでいて。『だんだんこ』を一緒に作った平田穂生さんは、監督の隣の部屋に住んでいた方です。東宝の脚本家でした。
―― 『だんだんこ』では恭子さんは美術でクレジットされていますね。
恭子 もう、何でも屋ですね(笑)。