いま日本映画界を第一線で支える映画監督たちには、8ミリ映画を自主制作し、才能を見出され、商業映画にデビューした者たちが少なくない。その先駆けとして時代を切り開いたのが、惜しくも2020年に亡くなられた大林宣彦監督だった。自身も自主映画出身監督である小中和哉氏が聞き手として振り返るインタビューシリーズの第5弾は、当時の大林監督について夫人の恭子さん、長女の千茱萸(ちぐみ)さんに聞いた。(全4回の1回目/2回目に続く)
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大林宣彦監督のデビュー作『HOUSE/ハウス』を中学3年で初めて観た時は、そのめくるめく映像に衝撃を受けた。その時既に8ミリ映画を撮り始めていた僕は、作り手が映像を楽しんで作っていることを感じ取っていたのだと思う。大林監督が8ミリ自主映画を撮っていたことを知って、親近感を持った。大学生になった頃に大林監督の娘の千茱萸さんと自主映画仲間となり、大林監督はさらに近い存在となった。千茱萸さんから「友だちが作っている8ミリを手伝って」と言われて出会った女性と結婚し、その後妻は大林監督の事務所のデスクとして勤めた。そのような縁もあり、僕は『青春デンデケデケデケ』ではセカンドユニット監督、『海辺の映画館―キネマの玉手箱』では脚本(内藤忠司、大林宣彦との共同脚本)として大林作品に参加することになった。
残念ながら大林監督にお話を伺うことは叶わないが、自主映画時代から最後の作品まで大林監督と二人三脚で映画を作り続けた恭子さんと、大林映画と共に育った千茱萸さんから大林監督の映画作りについてお聞きした。
おおばやし・のぶひこ 1938年広島県尾道市生まれ。3歳の時に自宅の納戸で見付けた活動写真機と戯れるうちに映画を作り始める。自主制作映画『ÉMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ』(67・16mm)は全国の画廊や大学で上映され高評価を得る。『喰べた人』(63)はベルギー国際実験映画祭審査員特別賞を受賞。テレビCM草創期にはチャールズ・ブロンソンの「マンダム」をはじめ、カトリーヌ・ドヌーヴなど多くの外国人スターを起用。CM作品数は3000本を超える。1977年『HOUSE/ハウス』で商業映画に進出。主な作品に『転校生』(82)、『時をかける少女』(83)、『さびしんぼう』(85)、『異人たちとの夏』(88)、『青春デンデケデケデケ』(92)、『理由』(2004)、『野のなななのか』(14)、『花筐/HANAGATAMI』(17)、『海辺の映画館―キネマの玉手箱』(20)など。2020年4月没。