大林監督の映画作りの本質は、8ミリ時代から最後まで変わらなかった。今までにない表現を追い求め、新たな技術に臆することなく、むしろ楽しんだ。そしてその傍らには、いつも恭子夫人がいた。

©藍河兼一

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ずっと二人三脚で映画を作ってきた

―― 大林さんが先例に捉われずに自由に作れたのは、恭子さんがプロデューサーだったからだと思います。

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恭子 そういう意味では自由に自分のことを考えてできたとは思います。

千茱萸 『海辺の映画館―キネマの玉手箱』がクランクインした頃、恭子さんが目の手術で半月ほど現場に参加できなかったんです。監督も体調は万全ではない中で一所懸命気を張ってはいましたが、恭子さんが現場に現れた瞬間、子どもみたいに「ホッとした」という顔をしていたのが忘れられないです。思うに、恭子さんは大林映画における良心であり、矜持だったのではないかと。恭子さんが後ろでニコニコしている限り俺は大丈夫という。

『海辺の映画館-キネマの玉手箱』撮影中の大林監督 ©大林宣彦事務所

―― 本当にその通りだと思います。恭子さんと大林さんってある意味2人で1人みたいな存在でしたよね。

恭子 素直に頼り切ってましたね。

―― お話を伺っていると、それは8ミリの時代から一貫して全然変わってないですね。

恭子 変わってないですね。

自主映画と商業映画との違いとは?

―― 大林さんは自主映画と商業映画で変わったことは何かあったんでしょうか?

千茱萸 バジェット(予算)の大きさとか、スタッフ、キャストの人数の多さとか、そういうことでは変わっていったけれども、監督自身が変わることはなかったです。

恭子 それは全然ないですね。

千茱萸 むしろ自主映画と商業映画に限らずさまざまな映像の可能性を探り続けることを楽しんでいました。パビリオン用の360度映像、アナログからデジタルまで、初期のハイビジョン、4K……。新しい技術が出ると監督に試しに使ってみて欲しいというアプローチも多かったです。技師さんが思いもつかない使い方を発明するのでよく驚かれました。

©藍河兼一

 そういえば80年代は15本ほどの商業映画を監督するという、監督生活のなかで一番忙しい頃でしたが、そういう時に限ってもう一回自主映画をやってみようという試みをしたのが『廃市』。監督の中では「自分の真似をしないで、俺はちゃんと自分に嘘をつかずに信じた道を進めてるのか」と自らを立ち返ったり、本当に映画を拵えるのが大好きな人でした。まだまだ作りたいものはいっぱいあったし、作ってほしかったし、見たかったですよね。

恭子 本人もあと30本作るって言ってましたから。

千茱萸 世界中の映画監督の中でも、相当珍しいタイプの映画監督だと思うんです。映画を作る前に映写機と出会うという生い立ちもそうですが。映像の媒体が変わるときも、振り返ると要所要所、時代の変わり目のポイントに監督はいた気がします。常にちょっと早すぎるところはあったかなとは思うんですけれど。映画を撮る独特なスタイルも含めて。