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戦争三部作に託したメッセージ

―― 大林さんの晩年、戦争にまつわる映画が続きましたが、やはり恭子さんとのお話の中でそうなっていったんですか?

恭子 そうですね。私の一番上のお兄ちゃんは海軍の航空隊で戦死して、父が大変だったのを子どもの頃に見てますし、私は小学校1年生の7歳の時に東京大空襲に遭って、そんな話をよく大林にはしていたんです。大林は本当にお坊ちゃんで、何不自由なく尾道で暮らしていて、「私は大変だったのよ」みたいな話はよくしていたので、それを『この空の花』の時にいろいろ使って表現してくれましたね。

©藍河兼一

―― 恭子さんから東京大空襲のお話を聞いたんですね。

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恭子 東京大空襲で椎名町にあったうちも全部焼けました。上野のほうまで全部焼け野原になっていて。焼け野原に青いガスの青い光がポッポポッポ、焼け野原に見えたのがすごく印象に残ってますね。

―― 戦争の映画を続けて作ったのは、今の時代に必要だという思いがあったのでしょうか?

恭子 そうですね。今は戦争の前だ、みたいな。成城の駅で、高校生ぐらいの男の子たちと監督が話をしていた時に、高校生たちが「僕たちは今、戦前に生きてます」という言い方をしていたんですよね。監督はそれがずっと頭に残っていたみたいです。 

―― そのような危機感が高校生にもあったんですね。安保法制に対して映画監督協会で反対声明を出そうと仲倉重郎監督(注2)が提案した時、監督協会は「賛否両論あるから有志でやって」という対応で、仲倉監督が監督協会内で賛同者を募ったんです。

『海辺の映画館-キネマの玉手箱』撮影中の大林監督 ©大林宣彦事務所

恭子 そういえば仲倉さんも亡くなりましたね。

―― 残念ながら亡くなりました。そうやって集まった監督で反対声明を出したんです。僕も手伝いましたが、そのメンバーでシンポジウムを開き、大林さんも参加されました。そこで大林さんが「殺されても殺すな」とおっしゃったのはよく覚えています。

恭子 そうですか。

―― 最後の『海辺の映画館』も、やはり戦争の映画でしたね。

恭子 尾道の大林家の下には山陽線が通っているんですけれど、広島の原爆で被爆した人たちが線路伝いに歩いてくるのは監督も目にしたそうです。悲惨だったと思います。広島の原爆の死者は14万人と言われていますけれど、東京大空襲でも10万人以上亡くなっています。それなのに東京の大空襲ってそんなに話題になってないなと、いつも3月10日と4月10日に思うんです。東京大空襲を体験した人も減って、私が最後ぐらいだと思うんですよね。

―― 語り部がだんだんいなくなってしまいますね。

恭子 そうですね。

―― 大林さんの想いを引き継いで、頑張らないといけないと思います。今日は貴重なお話をありがとうございました。

『海辺の映画館―キネマの玉手箱』販売元:バップ

注釈
1)三本木久城 撮影監督、編集。『この空の花』以降の大林映画の撮影と編集を担当した。

2)仲倉重郎 映画監督、脚本家。代表作『きつね』『マンゴーと赤い車椅子』など。