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“発達障害”という言葉に寄っていってしまうことがある

石田 本日は専門家がいらっしゃっているので、ぜひ伺いたいのですが、昨今の「発達障害バブル」についてはどうお考えですか?

斎藤 発達障害という言葉自体は大事にしたい。たとえば、10年以上も統合失調症と診断されてきた人が実はASD(自閉スペクトラム症。発達障害の一つ)とわかった。ASDは薬はあまり要らないから、薬をやめたら改善したというケースもある。この概念はいろんな人を救っているなと思うだけに、逆に教育現場とか職場では過剰診断/過剰ラベリングが横行している面もあるのが問題です。

斎藤環氏 (写真右)
1961年生まれ。岩手県出身。筑波大学医学研究科博士課程修了。医学博士。爽風会佐々木病院・診療部長を経て、筑波大学社会精神保健学教授。専門は思春期・青年期の精神病理学・病跡学、「ひきこもり」事例の治療・支援ならびに啓蒙。漫画・映画・サブカルチャー全般に通じ、新書から本格的な文芸・美術評論まで幅広く執筆。著書に『社会的ひきこもり』『母は娘の人生を支配する』『承認をめぐる病』『世界が土曜の夜の夢なら』(角川財団学芸賞)、『「社会的うつ病」の治し方』、著訳書に『オープンダイアローグとは何か』など多数。

吉川 まさにこの数年で、自分が無意識のうちにラベリングやレッテル貼りをしていることをすごく感じるようになりました。職場の悩みを相談された時などに、パッと「発達障害」という言葉が浮かんできてしまったりする。数年前にはそんなことはなかったと思うんですが。

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斎藤 月美さんの本の中には、自己診断としてのASDという言葉は出てこないですよね。自分についての理解の補助線として、発達障害という言葉を使おうと思ったことはないですか。

石田 ないです。これ以上、病名はいらないかなって(笑)。昔の私は診断を受け、ある種無敵になりました。不都合はすべて病気や障害のせいにし、他人の振る舞いを見てもラベリングやレッテル貼りをし、自分がさも「知識人」になったような気さえしました。当事者特権のようなものも振り回していたと思います。病名や診断名は自己理解に本当に資すると思いますが、私は病名に飲み込まれていた。当たり前ですが、生きていればすっきり解釈できない出来事の方が多いはず。それなのに、喜怒哀楽まで病名に取られちゃうような感覚がありました。だから、これ以上病名を増やさないようにしています。

斎藤 賢明だと思います。ラベリング効果というのがあって、自分の行動がどんどんそっちに寄っていってしまうことがあるんです。発達障害と診断された人はどんどん空気が読めなくなり、ぎこちない行動パターンになったりする。言葉の負の面ですよね。

 ニューロダイバーシティという言葉があるように脳も多様なので、ある人にこういう特性がある、ということを、受容する環境とか社会状況の組み合わせで考えましょうというのが、最近の考え方です。社会と個人の界面で、どうしても適応上の問題があって生活がうまくいかない場合は診断をするし、周りがその特性を受け入れてくれてオールオッケーなら病名を診断する必要はない。私はこれが正しいと思っています。生きづらさの形を見極める時に補助線として使えるかどうか、それで充分です。ですから月美さんが使わなかったのは正解だと思う。変な言い方ですけど、やはりただの当事者じゃないですね(笑)。当事者であることはきっかけでしかなく、文章の人になっていくのだなという誕生の瞬間を見たようで感慨深いです。

(8月10日、下北沢・本屋B&Bにて収録)