お寺には休日がない
果たして、ひとり親家庭において、子育てと仕事の両立は可能なのだろうか――。
手がかりを求めてさんざんネット上をさまよった。似たような境遇で、子育てと仕事を両立させている人がいれば、自分だってやれそうな気がしてくるはずである。しかし、他のシングルファザーの体験談を読んでも、どうも最後のところで参考にならない。お寺の住職というのは、サラリーマンの生活スタイルとはかけはなれているからである。
せっかくなので、お寺の生活がいかに特殊なのかを書いておきたい。
一番わかりやすい違いは、「休日がない」ことだろう。
離婚前、お寺の住み心地の悪さに対して、妻は「ブラック企業だ」としきりにため息をついていた。「そこまで言わなくても……」と思ったが、一理あるのも事実だった。
会社勤めの人たちに比べ、お寺の時間はゆるやかに流れていく。お彼岸やお盆などの「繁忙期」は檀家さんがこぞってお寺に来られるので、朝から晩までずっとその対応に追われることになるが、特に大きな法要などのない時期はわりと暇である。でも、だからといって気を抜いてダラッとできる日は、一日たりとも存在しない。
どんな二日酔いの朝でも、起きたら作務衣に着替えて決まった時間に山門を開け、本堂で勤行をするところから一日が始まる。これはもう三百六十五日を通じて変わらない。住職になって以降、私服を着る機会もほとんどなくて、Tシャツとジーパンでふらっと出かけるのは家族旅行の時ぐらいである。
サラリーマン家庭なら、週末を「おうちでゴロゴロ」して過ごすという魅惑の選択肢があるらしいが、お寺の週末は法事の受入れでピリピリしている。定休日がないどころか、観光寺院と違って街中のお寺は開店時間や閉店時間も決まっていない。世間が長期休暇に入るお盆や正月は繁忙期のピークで、寝正月など夢のはるかまた夢である。
だから、「ブラック企業だ」と言われれば一理あるのだが、妻にそう言われると私も立つ瀬がない。なにせ私は、テレビや新聞などの取材に対して「お寺を社会に開きたい」と言ってきた人間だ。
妻には、「毎朝、お寺の門を開けて、地域の人々の心の扉を開くのだ」「本堂から読経の声や木魚の音を響かせれば、通りがかった人は心に凛としたものを抱く」と言い返し、「こんなに社会の役に立てる仕事はまったくホワイトではないか」とあらがった。でも、お寺の生活の背景にある意味をいくら説明しても、妻は納得してくれなかった。どんな美しいエピソードも、お寺のなかに住んで自分事として引き受ける身になれば綺麗ごとでは済まないという風だった。