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お寺には、プライベートがない

 もうひとつ、サラリーマン家庭とお寺との大きな違いは「プライベートが存在しない」ことである。

 お寺は住職一家の所有物ではない。檀家さんたちの寄付によって建立され維持されてきた「みんなの家」であり、住職は住み込みでそこを管理しているにすぎない。

「みんなの家」だから、檀家さんは近所のカフェやスナック感覚でふらっと訪ねてくる。住職は読経にでかけていたりすることも多いため、檀家さんと話すのはたいてい留守を預かる奥さんのつとめになる。

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 でも、奥さんだってお寺にいてダラダラ寝転んでテレビを見ているわけではなく、ほとんどの時間は料理や掃除など家事をしている。ファミリーマンションと違って、広い本堂や庫裏は掃除機をかけるだけでも一仕事である。

 しかも、頻繁に来客や電話が入ってくる。住職が帰ってくるまでにご飯の支度をしておくつもりでも、檀家さんの声がすれば直ちに火を止めなければいけない。あと少しで洗濯物を干し終わるところでも、中断して玄関口へ向かわなければいけない。そして、ニコニコと世間話に興じる。話はいつ終わるかわからない。

 何げなく「お変わりないですか?」と聞くと、「実はガンを患って……」と打ち明けられ、重たい悩みをひとしきり聞くこともある。帰って行かれた時には鍋はもう冷めている。再び火にかけ、冷めた鍋を温める。干し切れなかった洗濯物のもとへと向かう。しかしまた、次の檀家さんがやってくる。すぐに終わるはずの家事がいつまでも終わらず、やりきれない思いだけが増幅していく。

 もしそんなタイミングで私が帰宅しようものなら、飛んで火に入る夏の虫である。待ち受けるのは「おかえりなさい」という言葉よりも先に、「私だって自由な時間がほしい」という不満である。私からすれば、「みんなの家」に住まわせてもらっている分、家賃も要らないのだから多少我慢したらいいと思うが、そう前向きにとらえられるのは私がお寺の生活に慣れているからに他ならない。サラリーマン家庭で育った妻が戸惑う気持ちもよくわかった。