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敦成の祝いの場でそんな主張をしてしまったのは、伊周がよほど追い詰められていたことの証左だろう。

命取りとなった呪詛事件

もっとも、それだけなら、伊周がみずからの首を絞めることにはならなかった。ところが、寛弘6年(1009)1月30日、中宮彰子と敦成親王、さらには道長までもが呪詛されていたことが発覚した。捕らえられたのは、「光る君へ」で伊周に「じっとしてはおられませぬ」とけしかけていた高階光子や源方理だった。

彼らもまた敦康の外戚にあたり、自白した内容は『政事要略』によると、「中宮、若宮(敦成)、左大臣がいると、帥殿(伊周)が浮上できないので、前年末に行われた敦成の『百日の儀』のころから、この3者がいなくなるように呪詛してきた」というものだった。

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当然、首謀者は伊周と目されてしまう。高階光子や源方理らが官位を剥奪されたのは当然だが、一条天皇は私情を超えて、正二位を授けたばかりの伊周も断罪しなければならなくなった。こうして伊周は、内裏への出入りを差し止められ、いよいよ政治生命を失うことになった。

それでも一条天皇は、敦康の外戚である伊周の復権を望んでいたようで、同じ年の6月には、伊周は罪を赦されたのだが、もはや精神的にもたなかったようだ。父からの遺伝と思われる飲水病(現在の糖尿病)も悪化して、以後は衰弱の一途をたどった。

そして寛弘7年(1010)正月、彰子が産んだ2人目の皇子である敦良親王の「五十日の儀」が行われ、宮廷が祝賀ムードに包まれていた最中、37歳で生涯を閉じた。

死の床で愛娘2人に語ったこと

そのころ道長は、自分の娘の後宮に上級貴族の娘を女房として、次々と送り込んでいた。だが伊周は、自分の娘だけはそうさせたくなかったようだ。『栄花物語』によれば、死の床の伊周は2人の娘を前に、「おまえたちが女房になるようなことがあれば、自分にとっては末代までの恥だから、自分より先に娘たちを死なせてくれと祈るべきだった」と語ったという。