しかし、父の死後まもなくして、次女は彰子の女房になっている。
同じく『栄花物語』によれば、19歳だった嫡男の道雅にも、「世間に追従したり、人の家来になったりするくらいなら、山にでも入ってしまえ」と伝えたそうだ。
父の伊周は、それくらいプライドにこだわったのだが、道雅はそんな父に反発したのか、まったく応えなかった。以後、たびたび暴力事件を起こし、それでも25歳だった長和5年(1016)、正三位の非参議に叙せられて公卿の末席に名を連ねたが、その後も、三条天皇の内親王と密通したり、殺人を教唆したりと、荒くれた生活を続けた。
このため「荒三位」「悪三位」などと称され、63歳で没するまで、25歳のときに正三位になったのを最後に、一度も昇進することはなかった。
血筋が途絶えた伊周と明治まで続いた弟・隆家
一方、「光る君へ」でも「とうの昔に兄は見限りました」と語り、道長を支える意思を示した伊周の弟の隆家はどうか。兄の死後、外傷性の眼病を患い、唐人の名医がいるという太宰府への任官を望み、長和3年(1014)11月、太宰権帥に任じられた。
その後、隆家の足下で国難が発生した。刀伊の入寇。すなわち、寛弘3年(1019)3月から4月、女真族と思われる海賊が対馬や壱岐を襲撃後、九州沿岸に押し寄せたのである。隆家は九州中の豪族に召集をかけて応戦し、見事に撃退している。
その年末、隆家が太宰権帥を辞して帰京すると、その功績を評価して「大臣、大納言にも」取り立てようという声が上がったという。それは実現しなかったが、長暦元年(1037)から再度、太宰権帥を務め、長久5年(1044)正月、66歳で死去した。
伊周の嫡男の道雅は、荒くれて子孫も残さなかったのに対し、隆家の家系は大臣こそ出さなかったが、明治維新まで続いた。過去の栄光にしがみつき、そこから抜け出せなかった伊周と、早々に割り切った隆家。それぞれの明暗は、人生の教訓としてもわかりやすい。
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。