これに対し、証人として出廷した取調官は「そのようなことはありません」などと否定。警察はその後も拷問の存在を認めてはいない。また、取り調べが録画されてもおらず、全容はいまだに明らかになっていない。
ただ、2014年に静岡県警の倉庫で発見された取り調べ録音テープでは、この頃のやり取りが音声に残されているという。
それによれば、否認を続ける袴田に、取調官が「やったことはやった」「間違いないだろ」などと繰り返し迫る中、「すいません。小便行きたいですけどね」「(小便を)やらしてやる」「その前に返事してごらん」と、引き続き自白をさせようと要求。
その後、テープには「便器もらってきて。ここでやらせればいいから」という取調官の声が入り「そこでやんなさい」と促す様子や、「出なくなっちゃった」という袴田さんの声、続いて実際に用を足す水音なども確認できるという。
「手足の指の先に激痛が走りました。見るとすべての爪の間に…」
袴田は坂本に言った。
「私は清水署の取調べで45通の調書を取られたことになっています。しかし、捺印したのは最初の数通だけです。あとは全く記憶にありません。私は9月9日に自白したと検事の調書に記載されていますが、罪を認めた記憶が無いのです。深夜に気絶から目が覚めたら、留置場の床に転がされていて、手足の指の先に激痛が走りました。見るとすべての爪の間に針で抉られた傷痕がありました」
袴田は取調べの最後の日の記憶を「自分は蒸し風呂に入れられていて、私の顔を悪魔がじっと覗き込んでいました。そして富士山が真っ赤に燃えているのを見ました」と告げた。坂本は、袴田の精神が異常に錯乱していたのは想像に難くない、彼は自白すらしていない、とこのとき確信したという。
3回目の面接はこうして終わった。
2人の「最後の会話」
翌年から、坂本は所属部署が変わり、東京拘置所から離れた。次に訪れた袴田との4度目の接触は1988年の暮れであった。監獄法改正に向けて改訂作業を行うチームのメンバーになっていた坂本は、やはり現場の調査のために東京拘置所の視察に出向くことになった。
この年、昭和天皇が危篤状態に陥り、崩御による恩赦が近くなったと予測した東京拘置所は、その前に刑を確定しようとしており、異様な空気に包まれていた。坂本は刑務官時代に出遭っていた死刑確定囚たちのことが気になっており、舎房の巡回時に独房の窓越しから、ひとりひとりに声をかけ、励ました。その中には、連続射殺事件の永山則夫(1997年刑死)や冤罪が長年争われた波崎事件の富山常喜(2003年病死)がいた。そして袴田の房に来た。