「おっ母、わしが来たで~」
父の姿を見ると、母の顔もパッと明るくなります。そして父は、母の枕元に2時間も3時間も座って、母の手を握り、話しかけるのです。
いったい何を話しているのかな? 気になって耳をすませると、
「昨日わしは、ヒラメの刺身を食うたよ。あんたも食いたいじゃろ? 早う帰ってきて食おうや」
「あんたが帰ってきたら、すぐわしがコーヒー淹れちゃるけんの。また一緒に飲もうや」
食いしん坊の母をやる気にさせるのは食べ物の話だと、父はちゃんとわかっているんですね。次々と母の好物の話題を出して、あからさまに「食べ物で釣る」作戦に出ていたので笑っちゃいました。
もうひとつのミッション「筋トレ」
そして、父のもうひとつのミッション。それは、家に帰って来てからの母を支えるための準備でした。
文字通り、麻痺した左半身を常に「支えて」いないと、母は動けないのですから。
病院で母のリハビリ姿を見学した父は、
「おっ母が家に帰ってきたら、わしがあの兄ちゃん(理学療法士さん)みたいに左から抱えてやらんといけんのじゃのう。そんならわし、もっと筋力をつけんといけんわ」
そう気づいた父が始めたのは「筋トレ」でした。近所のクリニックのマシンルームで、週3回、エアロバイクを漕いだり、腹筋マシンで腹筋を鍛えたりし始めたのです。なんと98歳で!
もともと勉強熱心な人ですから、トレーニングの本を読んで「体幹」という言葉も覚えたらしく、
「体幹がしっかりしとらんと、おっ母がもたれかかってきたら、よろけてしまうけんの。二人で一緒に転んだら、それこそ大ごとじゃ」
そう、思えば父の行動の原点は、すべて母なんですよね。93歳で家事を始めたのも、98歳で肉体改造にまで挑戦したのも、結局は母との暮らしを守るためなんです。
愛の力って、すごいな……。
母が入院したことで、父と母の物理的な距離は離れたのに、二人の心の距離は今まで以上にぎゅっと縮まった気がして、ほっこりと幸せな気持ちになる娘でした。