思わず息を呑んだ。
おそらく、彼女は5分前といった、ほんの少し前のことですら分からなくなってきているようだ。しかも、飲んだことを思い出せないならまだしも、他の人が薬を飲んだと思い込んでいるのだろう。
僕は、夫失格なのだろうか
「何を言ってるんだよ、ペコ。うちには俺と君しかいないだろ? 他には野沢さんと小林が来るだけなんだから、誰もペコの薬を飲んだりしないよ」
何度言い聞かせても、カミさんは絶対に認めようとはしない。そのうち、僕もカッとなって、つい怒鳴ってしまう。
「いい加減にしてくれよ、ペコ! 他の人が飲むわけないだろ!」
一瞬、部屋の空気が凍りつくのが自分でも分かった。
そして次の瞬間、彼女はシュンとした表情を浮かべ、無言でトボトボと3階の自分の部屋に戻って行ってしまった。
「ああ、言い過ぎてしまった」
すぐに心の中で反省し、「次は絶対に怒っちゃダメだ」と自分に言い聞かせる。でも翌日、同じことが繰り返されると、またもや僕は声を荒げてしまう。頭では分かっていても、つい抑えられなくなってしまう感情――。
そのたびに、僕は広い心を持って優しく接してあげられない自分に腹が立ち、自己嫌悪に陥っていた。
言うことを聞かない子供についイライラして手を上げてしまった母親が、直後に我に返り、泣いている子供を「ごめんね、ごめんね」と抱きしめる。これは、実際によくあることと聞いた。
僕には育児の経験がないので実感としては分からないが、もしかしたら、このときの僕は同じような状況だったのかもしれない。
認知症について知識を深めるため、僕は様々な本を読み、インターネットで情報を検索した。介護の体験記を読んでみたこともあった。
もちろん、僕と同じように深く苦悩している人もいたが、前向きに介護に取り組んでいる人だってたくさんいる。なのに、なぜ僕は前向きな気持ちになれないのだろうか。
「相手に対する愛や尊敬の念があれば、介護は乗り切れる」
そのような言葉を目にしたこともあった。だとしたら、カミさんの介護を辛いと感じてしまう僕は、夫失格なのだろうか。