「何かしら勝ちがあるとは思ったんですが。指したかった手が詰めろにならないのに気がついて。全部考えて、消去法で一番やりたくない手を選んだんですが……。△7二金と打ってくるとは思っていなくて、読みの蓄積がない局面になってしまった。しかも馬が動いた瞬間に△9六香ですもんねえ。第一感は▲9七桂だったんですけど、自分でも意味がわからなくて」
永瀬は▲9七桂が第一感だった。あの局面ですぐに桂跳ねを思いつく人はわずかだろう。そこまではたどりついていたのだ。だが過去の経験が、常識が邪魔をした。歩が打てるのに盤上の桂を跳ねるなど、普通はありえない。そもそも敵の駒に包囲されているときは、自玉周りのマス目を空けないのがセオリーだ。
セオリーから外れた「例外中の例外」が正解だった
後日、藤井猛九段にあの場面の感想を尋ねると、「桂が跳ねると8九のマス目が空いちゃうでしょう。両方とも持ち駒金銀だったから桂跳ねが正解だったけど、金銀が入れ替わっていたら(永瀬が金金、藤井が銀銀だったなら)、▲9七歩なら勝ち、▲9七桂は△8九銀から詰まされる大悪手になってたじゃない。秒読みで、読み切るのは大変だよねえ」と永瀬の心境を慮った。
▲9七桂のような例外中の例外が正解になるとは。将棋の神様はなんて残酷なことをするのだろうか。
一通り棋士同士で口頭で感想戦を言い合った後に、永瀬が私にスマートフォンの画像を見せた。
「これ、明日斗さん(斎藤明日斗五段)が作った〈どっちが勝ちか〉という問題なんですが、難問で1時間以上考えた棋士もいます。藤井さんに見せていただけませんか」
みんなが画像を撮影すると、永瀬は「前日ほとんど寝られなかったので先に失礼します」と会場を後にした。
やがて記者会見を終えた藤井が現れた。私はさっそく隣の席に移り、藤井に図面を見せた。しばらく画面を眺めたあと、藤井は無言で食事を始めた。そうだよね、ごめんごめん。疲れているし、お腹も空いたよね。