さきに、遊女評判記は現在100種ほど内容が伝わっていると言いましたが、残っていないものも含め刊行数をみてみると、寛文の半ば~貞享(十七世紀半ば)頃の点数が目立ち、多い年には20冊ほども刊行されています。
遊女評判記が売られていたのは娯楽的な本を売っていた日本橋の草紙屋のほか、吉原内でも薬屋で売られたり、貸本屋が売り歩いたりしていました。貸本屋は貸本と販売を兼ねていた行商で、遊女評判記の挿絵にはよく遊女たちの格子の前を歩く「ほんうり(本売)喜之介」が描かれています。挿絵のように廓中で売り歩かれ、訪れた客はもちろん、店の関係者や遊女などの手にも渡ったようです。
1冊につき発行されたのは100~150部程度と、ささやかな数だったようですが、新しい遊女の情報をうしろに加筆して何度か増補再版しているものもあります。当時は買うより貸本を利用する方が多かったといいますから、部数よりかなり読者が多かったように思います。
部数が少ないうえに内輪ネタが多いため、読んでいたのは関係者だけなのではないか、と推測する研究者もいます。出版が下火の頃はそういうこともあっただろうと思いますが、年に20種ほども出されていた頃などは、とても内輪だけに向けて書かれていたとは思えません。のちに江戸土産としても喜ばれたという吉原細見に比べれば、かなりニッチなものであったのは間違いないですが。
「この作者は本当に性格が悪いな!」
刊行が急に多くなった寛文の頃は、先述のとおり、散茶女郎が登場し、客の大衆化がはじまった時期です。そのため、遊女評判記の需要も増したのでしょう。吉原細見のように地図を付したり、並び順をわかりやすくしたりと、初心者にわかりやすい趣向を凝らしたものも登場し、出版合戦が繰り広げられていくこととなりました。
刊行が盛況だった頃の遊女評判記を読んでいると、「この作者は本当に性格が悪いな!」と感じることが多々あります。理由はさまざまですが、よくあるのは、前に出版された遊女評判記に対する口撃がひどいこと。
「◯◯という評判記でこの遊女は情に厚く心優しいと書かれている。だが、実はこんな悪事をしている。あの作者の目は節穴だ!」といったふうに、先に出された遊女評判記の誤りを非難するのは、遊女評判記の刊行がはじまった頃からありました。一種の様式美です。寛文以降はこれが更にヒートアップして、「誰かをけなさないと遊女評判記は書けないのか?」というくらい非難合戦が白熱していきます。