春海橋に並ぶ古びた鉄橋「晴海橋梁」
そして、晴海と豊洲を結ぶ春海橋である。
この橋そのものは、取り立てて特別な橋ではない。見逃してはならないのは、春海橋のすぐ脇に並んで架かっている、古びた鉄橋だ。実に都会的で真新しい高層ビルが向こうにもこちらにも建ち並ぶ豊洲と晴海。その町並みとはいかにも不釣り合いな、古めかしくもいささか殺伐とした雰囲気すらたたえている。
少なくとも、膾炙している豊洲や晴海の町のイメージからすれば、まるで異物のような違和感を放つ。
橋の名は、晴海橋梁という。いまは遊歩道として整備中なので橋の上がどのようになっているかはよくわからない。ただ、少し古い時代の写真を見れば、この橋がどんな役割を担っていたのかは一目でわかる。橋の上には、橋と同じくらい古びたレールが敷かれている。晴海橋梁は、かつての東京都港湾局専用線の廃線跡なのである。
東京都港湾局専用線はその名の通り東京の港湾部、豊洲や晴海といった湾岸エリアを走っていた鉄道路線だ。いまの豊洲や晴海の有り様を見れば、お客を乗せて走っていれば便利になりそうな気もするが、専用線というからには貨物線。
深川線・晴海線・芝浦線・日の出線などいくつもの路線を持ち、全盛期には24kmほどの線路を延ばしていたという。豊洲も晴海も、いまとは似ても似つかぬ工業地帯だった頃のお話である。
新しい埋め立て地にやってきた「東京石川島造船所」
せっかく、晴海橋梁という工業地帯の残滓を見つけたのだから、もう少し専用線の廃線跡を探索してみたい。すっかりビル群に生まれ変わってしまった豊洲や晴海にだって、いくらかの痕跡は残っているはずだ。まずは、古い地図と見比べながら、豊洲の町中を歩く。
豊洲は、大正時代の終わり頃から昭和の初めにかけて生まれた埋立地だ。なんでも、関東大震災の瓦礫を用いて埋め立てたという。最初に新しい埋立地にやってきたのは、もちろんタワーマンションではなくて、東京石川島造船所。
隅田川河口、佃島の北端の工場からはじまる石川島造船所は、1939年に新開地・豊洲に進出した。のちに石川島播磨重工業となり、現在はIHI。世界に冠たる重工業の最大手だ。
石川島造船所は、豊洲に近代的な工場と働く社員のための社宅などを建設した。それが、豊洲の町としてのはじまりだ。豊洲の造船工場はその後も長くこの地にあり続け、閉鎖されたのは2002年になってから。そこから再開発が進んでいまの巨大なビル群に生まれ変わったのだから、開発のスピードはなかなかのものがある。
ともあれ、そんな造船所の真ん中を専用線は横切って走っていた。国鉄の越中島駅(現在の越中島貨物駅)から伸びてきて、運河を渡って豊洲の町へ。その廃線跡は、マンションや道路によって分断されながらも、意外に多く残っている。