草むす空き地・運河の真ん中にポツンと残されたものが...
「都有地」の看板とフェンスの向こう側、草むす空き地も目をこらすと古いレールが敷かれている。一部はいかにも廃線跡といった趣を残したまま駐車場になっているところもあった。
空き地は結構なスペースがあるから、売り払ってマンションにでもしたら結構なお金になりそうだが、どうなのだろうか。
そのまま豊洲運河を渡る地点までやってくると、ちょうど運河の真ん中にポツンと橋台だけが残されていた。橋桁は撤去されたが、河底にしっかり基礎を打って建てられた橋台はそのまま、ということなのだろう。そして、豊洲の町中だ。
豊洲側はすっかり再開発によって工業地帯の面影は消え失せて、線路のあった痕跡を辿ることはほぼ不可能になっている。あちこちに港や船を思わせるオブジェがあって、かつて造船所だったことを偲ばせる仕掛けは点在しているが、専用線となるとすっかり歴史の彼方。
そんな中、ほぼ唯一といっていい遺構が、マンションの間の路地を抜けた先、豊洲三丁目公園の手前に残っている。ここに、レールが地面に埋め込まれている一角がある。
本線格で越中島方面から豊洲埠頭まで続いていた深川線が、晴海に向かう晴海線と分岐していたあたり。埋められたレールは北にカーブしているから、晴海線の線路なのだろう。
このレールが、かつて専用線で使われていたレールそのものなのかどうかはわからない。マンションにお住まいの方か、それとも近くで働く人か、レールの上を歩く人は少なくない。それでも、彼らは足元のレールなぞに目もくれない。
この場所が過去にどうであったかなど、いまを生きる人にとっては無関係、といったところか。廃線探索をしている人は、筆者の他には誰ひとりとしていなかった。
豊洲には、明確に特定できる専用線廃線跡はほぼここだけだ。あとは完全なるビル群の中に埋没して消え失せた。豊洲公園のあたりでは物揚場線が東雲方面に分岐していたはずなのだが、それももちろん跡形もない。
かつての豊洲には、今とは全く違う光景が広がっていた
昭和大学江東豊洲病院の裏側、東雲運河に面した一角にもかつては専用線が伸びていた。他とは少し違った武骨な岸壁は、当時の姿そのままなのだろうか。
東電堀と呼ばれる岸壁前の溜まりの西側も、大きなマンションが建ち並ぶ。その奥に進めば豊洲市場という、これまた東京湾岸、ウォーターフロントを代表するエリアだ。
ゆりかもめの高架をくぐって晴海を対岸に見る一帯は、ガスの科学館や公園が整備され、ランニングをしている人もいればのんびりくつろぐ外国人観光客の姿も。ガスの科学館には、社会科見学とおぼしき小学生の集団が出入りしている。
豊洲市場、公園、マンション。しかし、この場所にもかつては専用線が伸びていた。ガスの科学館のあたりはちょうど石炭埠頭、豊洲から東電堀を挟んだ対岸のマンションはかつての火力発電所。豊洲市場にも、東京ガスの工場が広がっていた。豊洲は、東京のエネルギー基地という一面も持っていたのである。
専用線はこのエネルギー基地にも伸びていて、モクモクと噴煙が上がるその脇で石炭やコークスといった燃料を運んだ。ザ・産業鉄道。いまの豊洲からはまったく想像も及ばない、そうした光景が広がっていた。
写真=鼠入昌史
つづく後編記事『「ジュリアナ東京」はなぜ芝浦にあった? 巨大貨物列車の廃線跡が物語る晴海・芝浦エリアの“意外な一面”とは』では「晴海フラッグ」の造成など変化が著しい晴海・芝浦地区の今昔と廃線跡をたどっていく。