「律法主義」から救いたい
牧師 「こうあらねばならぬ」という考え方を律法主義的、と言うんですが、僕は宗教は本来そういうものじゃないと思っているからね。信じろ、と言われて信じる人はいないし、教会に来い、と言われて行くのはおかしい。宗教はもっと豊かで寛容なものです。
まじめ 実際、教会のなかにはこういった律法主義的な考え方をするところもあって、「あなたは毎週教会に来ないので不信仰です」とか「教会に対してもっと奉仕をせねばなりません」とか言われることもあるようです。そうやってお互いに裁きあうことで、「出来ていない自分」を強く感じ、自分で自分を責めてしまうんですね。教会内で傷ついてしまう人も少なくありません。
ふざけ 献金、と言って教会に通っていただいている人には運営費を払っていただくことがあるんですが、それも「この金額を絶対払いなさい」ということは僕たちの教会では言いません。それは来ている人たちが神様と対話する中で、自分たちで決めることなので。孫がかわいかったらいくらでもお金払って何でも買ってあげますよね? それと同じことです!
まじめ 孫の例えはちょっと違う気がする(笑)。
神様は「赦す神」であって「裁く神」ではない
――裁きあう、ですか。それは宗教に限らず、どこの世界でもそうかもしれませんね。他者がやっていることに関して「こうじゃなきゃだめだよ」と言ってしまうことも多いと思います。
牧師 聞いてほしい話があったり、疲れて休みたいときに来てください、というのが僕たちの教会のスタンスです。
そもそも、神様は「赦す神」であって「裁く神」ではない。他者を赦す、というのがキリスト教の中でも根本の概念なんです。そういった根本の概念など「絶対に譲ってはならないもの」と、伝道のやり方など「譲り、変化していくもの」が世の中にはあります。僕は世代ではないのでツイッターのことはよく分かりませんが、時代のニーズがこういったところにあるのなら、そこは変化させていい部分ですよね。
ふざけ 昔は「トラクト」というパンフレットみたいなものを配っていたんですが、その代わりになるもののひとつがツイッターなのかな、と思います。