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「そういう女の子もいました」石和で“色を売る”芸者も…

 山下氏は苦笑いするだけで否定はしなかった。筆者は就職氷河期世代のため、この時代の盛り場話をきくにつれ、いつもすぐには信じられない思いがするのだが、数々の証言を聞く限り、たしかにこうした一時代があった。聞きにくい質問をぽん太に投げかける。昭和後期の石和を取材した雑誌記事には、ストレートにいって、

――9割までが色を売る芸者であった――

 こうした意味の記述がある。――ぽん太に聞く。ご自身、そして経営していた置屋ではそのあたりどうだったのだろう。

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「いや、私はそれは嫌だったから。(芸者置屋の)おかあさんが、三味線、太鼓、踊り、どれも芸達者で。そういうほうへ行こうと思って。まあ、(経営する置屋での)抱え子たちのなかには……そういう女の子もいました」

 それ以上彼女は多くを語らなかった。かわりに、匿名希望の、とある元置屋経営者の女性が証言してくれた。

密室での「遊び」の相場

 バブル期、石和芸者の花代(玉代)は2時間1万4000円ほどだったといい、お座敷のあと、延長料金として花代がいくら加算され続けても気にせず、スナックあたりに連れ出して飲み回る客も大勢いた。一方、お座敷のなかで遊びを完結させる客たちもまた多かった。そうした密室での「遊び」には相場があった。

「ええ。(値段は)決まっていました。ざっくばらんに言えばあの時代、石和はそれが許された街だったんです。最後まで遊ぶなら、別途5万円。泊りは10万円。仕事を終えて帰ってきた芸者は、置屋には玉代だけ詰めれば(払えば)いい。あくまでも(置屋の)おとうさんおかあさんは分からない、という形ですから」

売春は制度化されて定着していた

 売春防止法に抵触しないよう、置屋側では表向き関知しない建前は守りながら、最初に客から連絡が入る段階で、最後まで遊ぶかどうか確認して予約をとる。つまり、売春は制度化されて定着していたわけである。この値段を払えば正規の性風俗店で堂々と遊興できるのに、いつの時代も愚かな男たちは、密かに「芸者と」、という一点に、面白さを見出す。筆者も正直、昭和の男たちの気分がわからないわけではないが。

 芸者が芸でなく色を売ることを昔は「不見転」(みずてん)と言ったが、私が都内のある花街で聞いたところでは、昭和後期は「影(かげ)」と呼ばれていた。匿名女性によれば、石和では――

「裏(うら)、と言っていましたね」

 表座敷、裏座敷、と隠語として使われていたものが、省略されて定着したのだろう。昭和50年代に石和温泉の芸者をレポートした雑誌記事にも用例が見える。

(※1)「週刊現代」昭和49年2月14日号
(※2)「週刊新潮」昭和59年10月4日号