昭和の街並みが残る歓楽地を訪ね、人に会い、飲み、話を聞いてきたノンフィクション作家・フリート横田が、一大歓楽地として知られた山梨県の石和(いさわ)温泉を訪れた。往時の繁栄、そしてバブル崩壊後、さらにはコロナ禍を経た現在の温泉歓楽地をどう見たのだろう。(全2回の2回目/1回目から続く)
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石和の治安に不安要素が増し、暴力団経営の芸者置屋も生まれた
歓楽のにぎわいは、石和に別の顔も招来した。山下安廣氏(昭和48年創業の旅館「きこり」のオーナーで、石和温泉観光協会の会長)は往時を回想する。
「あのころ、社員旅行で夫たちが石和へ行くというと、奥さんたちは反対したようですね。それと、エージェントさんが入っての団体旅行で、バスでお客さんたちが来るとき、ガイドさんが『石和温泉は外に出ると怖いので出ないでください』とアナウンスすることさえあったんです」
盛り場の治安に不安要素が増していった。飲食店の一部にはぼったくり店ができ、暴力団の影も通りにちらつきはじめた。外部から来た組織と地場の組織の衝突が起きたこともある。さらには、一部に暴力団経営の芸者置屋も生まれた。
それに「芸者と裏」、とせずとも、手っ取り早く色を買うこともできるようになっていった。街にはそれを担うアジアの女性(タイ、フィリピン、台湾の女性たち)が多数送り込まれ、メディアでも「じゃぱゆきさん」として週刊誌等で取り上げられるように。電話で予約を取る無店舗型か、飲み屋に擬態した方式を取っており、業者は地下化、誰がどのように女性たちを動かしているかも判然としなかった。
施設内にクラブやスナックを設けるホテルが相次いだ
こうした街の変化に、しだいに旅館側の体制が変化してきた。信頼できる置屋と提携して関係を深めるのはもちろんのこと、自分たちの施設内にクラブやスナックを設けるホテルが相次いだ。客はおもてへ出なくてもよくなったのだ。言うなれば「施設内で歓楽が完結する」状態。
現在の「湯けむり通り」を歩いてみて私が痛感したのは、射的や土産物屋、温泉まんじゅうや温泉卵の食べ歩きのような「街歩き体験」ができる店が通りに見当たらないこと。昭和後期から平成初期にかけて、内向きに再構成された街の構造は、基本的には現在まで引き続いている。