バブル絶頂期には100万円のチップをもらう芸者もいた
芸者の道に入って5年ほどが経った平成初頭、バブル絶頂期に独立。元いた置屋からのれん分けしてもらい、芸者置屋「分花ききょう」を開業。プレイングマネージャーとして、自身もお座敷に出ながら、ほか3人の芸者を雇い入れた。最盛期には20人もの女性が所属していた。女性週刊誌に求人を出すと、人は県外からたやすく集まったのだ。客も増え続ける。
「チップが20万、30万とかね。100万もらった子もいます。『ほら、ぽん太と知り合ってからうちの会社はこんなに大きくなったよ』って、20人もの芸者を呼んでくれた社長もいました。働く女の子たちも凄かった。ブティックへ行けば、棚の端から端まで洋服全部ください、とね。そういう子もいたんです」
社長は、前述した内装会社経営者。個人商店のようにはじまった会社は、社員数十人を雇うまでに成長していた。客側は相当の余裕を持つに至っていた。破格のチップを渡してまわる「太い客」は大抵が不動産業者。この国の土地が本来の価値を越えて狂騰した時代のこと。温泉地の歓楽地も過熱していった。働く女性たちの実入りもとてつもない。ぽん太の置屋もフル稼働しても需要を満たせず、他の置屋に仕事を丸投げしても、まだ電話が鳴り続ける。
老舗旅館の山下氏、「何か間違っていると思うくらいでした」
昭和後期、石和=芸者だった時代を知る老舗旅館のオーナーもうなずく。
「あの時代、ひと月に置屋に払う芸者の代金が1500万円にものぼったことがあります。うちには離れのような別館もありますが、2、3人の方が貸し切って、芸者を何十人とあげて、仲居さんさえも中には立ち入らなくていい、とかね。従業員1人ずつに5万円のチップをくれる人もいましたよ」
昭和48年創業の旅館「きこり」の山下安廣氏。石和温泉観光協会の会長もつとめている。実家は大月の材木商で、やはり「歓楽の旗」を立てに先代が石和へやってきた。では……笑いが止まらない時代ですね? 私は意地悪な問いを投げかけてしまったが、
「(これほどの盛況は)何か間違っていると思うくらいでした」