迫り来る貨車を「脱線器」で…
そんな「肥後のわるごろ」であった荒木は、熊本陸軍幼年学校を経て上京。陸軍士官学校(41期)へと進んだ。卒業後、千葉の鉄道第1連隊に配属。陸軍砲工学校でも学んだ。
昭和7(1932)年、荒木はまだ樹立から間もない満洲国に渡った。その後、当地で「ホロンバイル事件」が発生。荒木もその対応に追われることとなった。
ホロンバイル事件とは、満洲国の独立に不満を持つ勢力が、数百名とも言われる在留邦人らを人質にして独立を宣言し、武装蜂起した事件。首謀者の蘇炳文らは「東北民衆救国軍」を名乗り、日本に対して宣戦布告した。
日本側は当初、和平工作によって解決する姿勢を示したが、交渉は進まず、関東軍は武力をもって人質を救出することを決断。歩兵第25連隊第2大隊などが現地に急派されたが、その中に鉄道第1連隊も含まれていたのである。東北民衆救国軍が鉄道施設を広く占領していたためであった。
戦場での鉄道の運用などを主な任務とする鉄道連隊だが、最前線においては銃器などで武装した「装甲列車」により、「車両戦闘」を行う存在でもあった。輸送の中核を担う鉄道インフラを確実に掌中に収め、その沿線を含めて支配地を拡大することは、戦果に直結する最重要ポイントであった。
そんな戦線の先陣にいたのが荒木だったのである。
荒木は装甲列車を用いた追撃隊の指揮官として、敵の本拠地を目指した。12月3日、大興安嶺の地では、敵の銃弾が降り注ぐ中、放火された橋の鎮火に尽力した。
それから数時間後、荒木は雪景色の広がるトンネルの付近にいた。その時、一つの驚くべき情報が入った。6キロほど先の山上から、敵の貨車が猛スピードで近づいてくるというのである。追撃してくる日本軍の車両を破壊するため、敵軍が山の頂上付近から貨車を滑走させたのであった。
このままでは車両同士が衝突する大事故が起きてしまう。荒木は即座の決断を迫られた。荒木は速やかに味方の列車を後退させると共に、数名の部下と協力して、命がけでレールに脱線器(脱線機)の装着を試みた。脱線器とは、列車が暴走した際、車輪を意図的に脱線させることを目的として使う安全装置の一種である。
轟音がみるみる迫ってくる。一刻を争う中、荒木は部下だけに任せることなく、自ら先頭に立って作業した。荒木は脱線器をレールに装着した上で、即座に部下たちを退避させた。
しかし、荒木自身は尚も身の危険を顧みず、脱線器の具合を最後まで確認していた。絶対に脱線させなければいけないという強い義務感の表れだったろう。
だが、そのために退避が遅れた。敵の貨車は見事に脱線したが、積載されていた巨石の落下を受けて、荒木は絶命した。享年25。
殉職時の状況については、異なる記述も見られる。林田さんの許可を得たうえで、荒木の生家の2階を調べさせてもらったが、分厚い埃をかぶっていた一冊の古書の中に、以下のような記述を見つけることができた。刊行年は昭和8(1933)年である。
〈この時君は該列車に挟まれ右大腿部を切断せられ大腸露出し、大興安嶺山中に白雪を紅に染め、壮絶なる戦死を遂げたり〉(『満洲上海事変盡忠録 續編』)
荒木の最期の場面の委細を断定することは難しい。しかし、いずれにせよ、もしも車両同士が衝突していたら、多数の犠牲者が出ていたことは間違いない。
早坂隆氏の本記事全文は、「文藝春秋 電子版」に掲載されています。
全文では、満州事変の発端となった「柳条湖事件」の詳細や、荒木の死について報道したメディアの暴走、荒木の「銅像」の顛末などについて、詳細に語られています。
■連載「日本陸軍『鉄道連隊』の研究」
第1回「なぜ新京成電鉄はクネクネと走るのか…そのカーブには日本の近現代史が凝縮されていた」
第2回「手押しで動く『人力鉄道』、『武装列車』でロシアと対決……鉄道が〝最新兵器〟だった時代」
第3回「25歳鉄道兵は“中国の暴走貨車”を脱線させて「軍神」になった〈満洲事変秘話〉」
第4回「満洲の大河に『氷上レール』を敷いて200トン蒸気機関車を走らせろ《新幹線に継承された『鉄道連隊』の技術》」
第5回「破壊される黄河の大鉄橋、上空からはB-29爆撃〈鉄道兵と日中戦争〉」
第6回「鉄道兵最大の挑戦『泰緬鉄道』の真実《到底無理な突貫工事、爆発する伝染病…映画『戦場にかける橋』の嘘とは?》」
第7回「『こんな卑劣な報復があって良いのか』死刑になった鉄道兵の叫び《泰緬鉄道と戦犯法廷》」