メニューの選び方は、お店の入り口のショーケースに並んだおかずから客自身が好きなものを取るスタイルを取り入れた。
子ども3人を抱えてお店を切り盛り
正文さんの狙いは当たり、現場仕事の客たちがお昼になると食べにくるようになった。人が多すぎて、食材を運ぶ青果店が店内に入れず、2階の窓から運んでもらうほどの忙しさだったという。
「創業した頃、お腹に長男がいたんです。当時は出前もしていて、人を雇える余裕もなかったから、大きなお腹でよく働きましたよ。大晦日になると、年越しそばを常連に届けるために、お父さんはよくここで寝泊まりしてました。2人とも元気いっぱいの時やったからね(笑)」
その後、長女と次男・武さんが生まれ、ますます育児と家業に追われた。幸い、千秋さんの両親のサポートがあり、毎日車で隣町にある自宅から子どもたちを連れてきてくれた。休憩の合間に店でご飯食べさせ、連れて帰ってもらう。店を閉めて帰宅すると、子どもたちはスヤスヤと寝息を立てている、という生活が続いた。
客は大型スーパーに流れ、市場は衰退
1980年には各地で大型スーパーマーケットができ始め、品揃えと価格競争に勝てない市場は急速に寂れていった。神野市場も例外ではなく、近所の大型スーパーに客足をとられ、閑古鳥が鳴いた。ほとんどの店舗の経営者が高齢だったことも重なり、次々に閉店。85年頃に市場の店は散髪屋と2軒だけになり、95年頃には千成亭だけになった。
いったいなぜ、正文さんと千秋さんはこの場所で営業を続けたのか。それは「好きで通ってくれるお客さんがいるうちは続けよう」と思ったからだった。創業当時から通う87歳の田代八重子さんは、正文さんと千秋さんのことをこう振り返る。
「ご夫婦でいつもニコニコされてね。私はおしゃべりだから、千秋さんとようさん話しますねん。うちの息子も正文さんになついとったんですわ。忙しい中やろうに、持ち帰りの惣菜を用意してくれたり、店先で正文さんが自転車のタイヤの空気を入れてくれたりね。ほんまお2人とも優しいんです」