武さんは父と同じ道に憧れて19歳からフレンチを学び、神戸市北野にあるフランス料理店の副料理長になっていた。母の変化は、彼の収入も安定し、着実に地位を築いている最中のことだった。
母が一番元気でいられることって何だろう? 父と過ごした店で働く母は輝いていた――。両親に店を継いでほしいと言われたことは一度もない。継ぐつもりもなかった。ただ、母に元気になってもらいたくて、思うより先に言葉が出た。
「このままじゃあかん。おかん、一緒にやろか」
ちょうど勤めていたレストランが新しい料理長に変わるタイミングだったため、「これは決断しろってことかも」と思い、退職届を出した。
「フレンチをしていたプライド」の変化
いくら母のためとはいえ、今まで築いてきたフランス料理人としての道を閉ざすのには勇気がいったはずだ。「方向転換をするからには、自信があったのですか」と聞くと、武さんは首を横に振った。
「まったくありませんでしたよ。見ての通り、今にも崩れそうな場所です。正直、どうやろうなぁって(笑)。フレンチをしていたプライドもあったし、自分がやりたいことをしている実感もありませんでした」
武さんは今でこそ大きな声で、一人ひとりの客に「いらっしゃいませ!」「ありがとうございました」と言っているが、最初はまったく言えなかったという。気持ちに変化が起きたのは、常連客の行動がきっかけだった。
休業してから半年後の2021年の冬、武さんと千秋さんは広告を出すこともなく、ひっそりと千成亭を再開させた。
すると、父の代からの常連客が1人、また1人と店にやってきた。「店を開けることを言ってなかったのに、なんで?」と、武さんは不思議に思った。
「待ってたんや!」
「千秋さん、元気にしとった?」
「心配しとったで」
次々に現れるなじみの客たちは、安堵の表情で千秋さんに話しかけた。
どうやら客たちは、「今日はやってるかもしれない」と、店先をよく覗いていたようだ。懐かしい人たちとの再会に、千秋さんは涙ぐんだ。その後も、噂を聞きつけた地元客が来店するようになり、千秋さんは元気を取り戻していった。