1ページ目から読む
3/6ページ目

つかこうへいからの容赦ない指導

 同劇団では入団したその年に『蒲田行進曲完結編 銀ちゃんが逝く』、翌2001年に『新・飛龍伝 私のザンパノ』に出演する。後者は筆者も観に行ったが、ほかの出演者が全員若い男優というなかで、内田が立ち回る姿はただただまぶしかった。彼女自身はつかから指導を受けた経験を次のように振り返っている。

《つかさんが教えてくれたことはたくさんありますが、一番大きかったのは、自分をさらけ出すことがいかに大事かということ。「人間というのは、元来かっこ悪かったりダサかったりするものだ。それをさらすことが、人間同士、一番通じ合えることなんだから、とにかく噓をつくな。失敗でも恥さらしでも何でもいいから、恐がらずにやるだけやってこい」と、言われました。私、そういうところにすごく共感したんです》(『婦人公論』2002年2月22日号)

2001年、北区つかこうへい劇団の舞台『新・飛龍伝 私のザンパノ』の稽古風景

 もっとも、そのためにつかは容赦なく役者の弱点を突いて追い込み、丸裸にした。内田もさんざん攻め込まれ、ときに屈辱感も味わった。たとえば、食事中に箸についたご飯粒をペロッと舐める癖を見られており、いつのまにか劇中に、相手役から「おまえ、箸ペロペロッて舐めるけどよぉ」と言われる場面が用意されていたという。

ADVERTISEMENT

 つかとの出会いは、内田に責任というものを意識させることにもなった。自分で選んだ演技をつかにぶつけるとあって、悩みに悩んで食事が喉を通らないこともあったらしい。

つかこうへい氏 ©文藝春秋

《でも、そういうときに、自分を追い詰めるんじゃなくて、どこまでも面白がっていられればいいなと思ったし、それを面白がれる人でいたい、と願うようにもなりました。私、これまで常に「明日、結果を出そう」としてきたような気がするんです。でも今は無理にそうしようとは思わない。今日やったことは絶対明日に残るはず、そう信じて、今を精一杯生きたいんです》(『FRaU』2001年2月13日号)。

結婚→芸能活動を休止した理由は…

 これは『新・飛龍伝』の公演直前のつかとの対談における内田の発言である。翌2002年にはドラマ『北の国から 2002遺言』で共演した吉岡秀隆と結婚。それから2005年に離婚するまでの約3年間、再び芸能活動を休止する。これについて彼女は《私は不器用なので、いろんなことを一度にはできない。家事をしながら外で仕事をすることが想像できなかったし、誰かを支えることや主婦業をちゃんとやりたかったので休業しました》と説明しているが(『CLASSY.』2016年11月号)、そこには、つかとの出会いで芽生えた「今を精一杯生きたい」との思いもあったはずだ。

 結婚生活にピリオドを打ち、30歳にして俳優の仕事に戻ったのも「きちんと生きていきたい」という決意からだった。