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一番大きなポイントとなる“視点”

町田 一番大きなポイントは、「主観」「客観」という視点かもしれません。あるいは、そのバランス感覚と言いますか。競技者/作り手としての言語表現には、おそらく多分に主観が入ってくるでしょう。というか、入らざるを得ない。その作品を解釈するのも、実際に演じてみせるのも「自分」ですから。言うなれば、自分が理解できるように言語化し、それでもって自分自身に語りかけるわけですね。

 解説者は、目の前で起こっているパフォーマンスという現象を観客という他者に向けて語るわけですが、出発点は「自分がどう感じたか」なので、やはり主観です。ですが、伝える相手がいる以上、常に自分の主観が正しいかどうかを客観視する視点が不可欠になります。

「2014全日本フィギュアスケート選手権」での町田さん ©文藝春秋 撮影/榎本麻美

 研究者としては――これはTPOや題材によっても変わってきますね。近年私は比較文学的なアプローチを取ることが多くなっているのですが、そのような領域で作品分析をする時は、客観的に論じることに気を配りつつ、少なからず主観や、自身の思想のようなものも入ってくる。でも、それらは単なる主観ではありません。背景に、私がこれまで学んできた学術的知見があり、研究に裏付けられた客観性がある。そうでなければ、批評は批評たり得ませんからね。これは解説の仕事などにも通底するものがあり、いわば、主観を入れるからには、入れる根拠を示すための準備をすべし、ということでしょうか。

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――今年(2023年)芥川賞を受賞した市川沙央さんの『ハンチバック』が、側弯症を患う重度障害者を主人公にした作品だったことに象徴されていますが、文学の世界では今、身体表現に注目が集まっている現状があります。そして、文学・小説一般における身体というのは、常に「何かに照らされた」結果として生じてくる、という側面があるのではないかと思うんです。例えば、「障害」や、あるいはスポーツ小説における「競技」などを通して、それ固有の身体が言語化されている、というイメージです。逆に言うと、そうした“何か”がなければ、身体の言語化は容易ではない、とも言えなくはない。

「言語がすべての表現のベースになっている」という思想を持つ町田さんにとって、言語化が難しい身体、あるいは、言語からこぼれ落ちてしまうような身体性を実感されることはありますか。(#3につづく)