2014年末にフィギュアスケート競技者を引退後、研究者をはじめとして言語表現の分野で広く活躍する町田樹さん(34)。“氷上の哲学者”と呼ばれた町田さんが、「競技する身体」を支える言葉の力について語った、「文學界」のインタビューを特別公開します。
「『表現力が素晴らしいですね』というような解説は、本質を何も語っていない」「スポーツの世界には実体のない“空虚な言葉”が蔓延している」――。そう語る町田さんの、セカンドキャリアにおける挑戦とは。 (全3回の3回目/はじめから読む)
初出:「文學界」2024年3月号 2023年12月21日収録
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身体をめぐる言語表現のさらに根底には何があるのか
――「言語がすべての表現のベースになっている」という思想を持つ町田さんにとって、言語化が難しい身体、あるいは、言語からこぼれ落ちてしまうような身体性を実感されることはありますか。
町田 この質問にお答えするには、やはり、身体をめぐる言語表現のさらに根底には何があるのか、ということを考える必要があるでしょう。そして、私の場合は、やはり経験が言葉になっている、ということが大きい。研究者としての私は、経験していない、あるいは経験し得ない身体は書きようがありません。ただし、小説家やルポライターなどの物書きはこの限りではなく、おそらく取材などを重ね、かつ想像力を駆使することで、この「経験」の壁を乗り越えていくのだと思います。
解説や評論には、経験した身体を書いているという強い意識がある
私がなぜフィギュアの解説や評論をやれているのかといえば、それは私がかつてフィギュアスケーターだったからです。でも、どの分野においても、経験者ではない解説者や評論家もたくさん存在します。そしてもちろん、そのことにも大いに意味があります。なぜなら、経験者ではないからこそ語れる身体というのも確かにあり、その独自の観点は、経験者である私にはないものだからです。
でも、私個人の場合には、やはり経験した身体を書いている、という強い意識があります。経験していない身体を書くと、そこにはズレや齟齬が生じてしまい、それこそ「言語からこぼれ落ちてしまうような身体性」が発生してしまいそうです。あくまで「自分の場合は」というエクスキューズ付きですが、言語によって描出された身体が正しいのか、それとも誤っているのか、その答え合わせをするための拠りどころとなるのが「経験」であるという認識です。でも、この考えが「絶対」だとは言いません。身体の表現方法や、それに対する考え方は千差万別ですからね。