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当事者ではない、第三者がアスリートを書くときに生じる問題

――今のお話に絡めて、もう少し文学に関する質問をさせてください。最近の小説、特に純文学というジャンルにおける傾向として、「当事者性」が問われる瞬間が増えていると感じます。「経験に裏打ちされているがゆえに描けるリアル」という側面もありつつ、一方で「経験に依らないことを書くことも技術のうち」という考え方もあると思うので、いろいろと議論の余地があると思うのですが、こうした時代の潮流を、町田さんはどのように分析されますか。

町田 「経験し得ない身体」を第三者が書こうとした時に起こる大きな問題として、一つに、どうしてもステレオタイプが入ってきてしまう、ということが挙げられると思います。だからこそ、それを回避するために、ルポや小説を書く作家は、綿密に取材をしたりするわけです。ただ、あらゆる事象に対して、当事者ではなく第三者が語る場面・機会というのは思いのほかたくさんあります。

 ゆえに、第三者が語る障害者、第三者が語るアスリートといった言説の中に、ステレオタイプが紛れ込むことは絶対になくならないでしょう。そこには、時に実体から大きくズレていたり、的を射ないものも含まれていて、これは当事者を傷つけることになる。しかも、マスメディアという非常に大きな影響力を持つ存在を介すことで、その誤った情報はさらにステレオタイプを強化し、浸透・定着していってしまう。これはやはり食い止めなければならない――ここに、当事者による言語表現というものが求められている大きな理由があると私は考えています。

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©文藝春秋 撮影/石川啓次

スポーツにおける「芸術性」の評価とは?

――「第三者による身体の言語化」といえば、スポーツ観戦における、競技者の評価について気になることがあります。例えば、それが球技であったならば、「ボールがよく取れる」「得点ゴールが多い」といった、いわゆる技術の部分が着目され、「評価=言語化」されます。

 これがフィギュアのようなアーティスティックスポーツである場合、ジャンプのクオリティのような部分は「技術」の領域ですが、素人目にはなかなか出来/不出来が判断つきづらいのに加えて、いわゆる「芸術性」に関する領域ともなると、さらにその評価が難しくなってくるように思うのです。鑑賞者と競技者という視点に立った時、両者はどのような言葉の関係性を結び得るのか、町田さんのお考えになる理想像があれば伺えますか。