この絵は歌舞伎の演目「勧進帳」の名場面を描いた「油絵」です。弁慶が主人を窮地から救うため、白紙の巻物を勧進帳と見せかけて読み上げるところを、等身大より少し大きい迫力ある姿で捉えています。作者の児島虎次郎(1881―1929)を知っている人は少ないかもしれませんが、パリでも認められた、日本の印象派として知る人ぞ知る存在。加えて、画家としての鑑定眼を生かし、日本初の西洋美術館設立を目指して奔走した人でもあります。

児島虎次郎「勧進帳」 1922年 油彩・カンヴァス 高梁市成羽美術館蔵

 現在の岡山県の山間部で生まれた虎次郎は、東京美術学校(現・東京藝術大学)を飛び級で卒業。東京勧業博覧会美術展に出品した「なさけの庭」が宮内省の買い上げになったことがきっかけで、地元岡山の実業家・大原孫三郎の援助を受け、フランス留学の切符を手にします。

 留学前の虎次郎は暗色と線で捉える描き方でしたが、渡欧後は印象派風の淡色の短い筆致を重ねた表現に変化し、「和服を着たベルギーの少女」のように現地の子供に和服を着せてモデルとした作品をよく描きました。そのように日本人に固有のものを生かす姿勢は、ベルギーで学んだ師匠のアドバイスによるものでした。そしてフランスの美術団体サロン・ナショナルの正会員になるという成功を収めます。

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児島虎次郎「和服を着たベルギーの少女」 1910年 油彩・カンヴァス 高梁市成羽美術館蔵

 帰国後の虎次郎は日本・中国・朝鮮半島などの東洋美術にも目を向け始めます。「勧進帳」という歌舞伎をテーマにしたのはその一環でもあったでしょうが、大の観劇好きだったことを反映しているのかもしれません。

 本作の鮮やかな色使い、くっきりした輪郭線、フラットな表現は、それまでの印象派風の画風とはちょっと違うスタイルです。しかし、布地の模様の装飾的な美しさを画面に盛り込み、平面的な背景で奥行を遮断しているところは「和服を着たベルギーの少女」と共通しています。他にも、顔や手の部分の厚塗り、金地が透けて見える巻物の白い部分など、自在な筆触による質感の描き分けも見どころです。

 今でこそ、日本のどこに住んでいても優れた油絵を見る機会はありますが、当時はそもそも身近にお手本さえない状態でした。虎次郎はかねてより、日本の美術界のために西洋美術館を構想していたようです。そして、大原の援助のもと、エル・グレコの「受胎告知」を始めとする名品の数々を日本に持ち帰ります。中でも、「睡蓮」はモネから直接に購入したものです。

 絶作となったのは明治神宮聖徳記念絵画館の壁画でした。画題は「対露宣戦御前会議」。重大なテーマだけに、虎次郎は辞退も考えましたが、引き受けた後は命を削るように没頭します。そして過労がたたり、47歳で亡くなるのでした。未完だった絶作は、大原の勧めで親友の画家・吉田苞(しげる)が完成させることに。

 虎次郎の死の翌年、彼のコレクションをもとに、大原は岡山県倉敷市に大原美術館を設立します。それは金融恐慌のさなか、周囲の反対を押し切ってのことだったそうです。

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「日本洋画130年 珠玉の名品と児島虎次郎」
高梁市成羽美術館にて12月15日まで
https://nariwa-museum.or.jp/2024/09/24/masterpieces_and_torajiro/