ABCD……でいうと、ちょうど真ん中のMが最初に閃いてしまう
――注目を浴びたのは『アラビアの夜の種族』(01年刊/のち角川文庫)ですね。日本推理作家協会賞と日本SF大賞を受賞。ナポレオンの遠征軍が迫るカイロで、ある執事が読み始めると面白すぎてやめられなくなる「災厄の書」を献上して難を逃れようと計画を立てて…という。当時、古川日出男さんが翻訳した海外小説と思った人も多かったですね。
古川 自分でも、本屋でほんとに海外小説の棚に並んでいるのを見ましたよ(笑)。あれは1800枚の大長篇でした。デビュー4作目になるし、それこそさきほど言った、100人出る小説、3万人客を呼ぶ小説を試してみようかなっていう。ナポレオン? イスラム? アラビア? え、そんなの俺書けるの? って思ったけれど、書いてみるしかないなって。
――何かひらめいた後に、よく「これ書けるのかな」と思っていますね。それだけ壮大なものを思いついているわけですが。
古川 ABCD……でいうと、ちょうど真ん中のMが閃いてしまう。アルファベット26文字のね。当初からそういうことが多かったですね。で、それが何の話か分からないから、大変だって思うわけですよ。『アラビアの夜の種族』でいうなら、閃いた時点でもちろんコーランなんて読んだことがないし。自分でもよく分かっていないことを誤魔化して編集者に説明しなくちゃいけない時もありました。最近は正直に話してますけれど。
――『アラビアの夜の種族』のMは、ナポレオンとか「アラビアンナイト」だったわけですか。
古川 そう。18世紀の世界とかね。スリリングなものをやりたかったんですよね。そこから香辛料を買ってきたり、コーランを朗誦してるCDを10枚くらい買ってきて、毎朝アラブのお香を焚いたりしながら聴いたり、実際にアラブ諸国に行ったり。それでアラビア語も勉強して、読めるところまでいきました。もう全部忘れましたけれど。
とにかく暇だったんですよね。小説家って言えないくらい誰も僕の名前を知らなかっただろうし、匿名のライターの仕事で生活費を稼いでいた頃です。暇だから1800枚にずっと没入しているんですよ。そのことばかり考えていた。それで危機的な状態に陥ったことが3回あったことははっきり憶えています。やっぱりそこまで小説に深く入ると、頭がおかしくなってくるんですよ。しかも『アラビアの夜の種族』って小説の中に小説が複数あるみたいな作りだから、その一番深いところを書いていると、現実に戻ってきたつもりになっても戻ってきていない。これ最後まで書き上げて出して手放さないと絶対にまずいと思ってやっていました。
宮崎駿って羨ましいなって思った
――そしてそれが刊行されて、評判になって。
古川 びっくりした。すごくびっくりした。いいものを書いたからといって評判になるとは思ってなかったので。でも、「アラビア」がなかったら、もう次は動かなかったですよね。ただ当時の僕が分かってなかったのは、小説の読者というのは思ったよりも保守的だということ。この小説はこのジャンルだからとか、この小説のテイストが好きだからという感じで、次も同じようなものを求めるんですね。「アラビア」の次に出したのが近未来の東京を舞台にした『サウンドトラック』(03年刊/のち集英社文庫)でしょう。「アラビア」のような耽美的な、衒学的なものを期待してくれた人たちが「?」って感じになっているのを見て、多くの人は未知のものを読みたいというよりも、安心して読めるものを求めるんだなと知って、僕、それでまたびっくりしたんですよね。
その時に、宮崎駿って羨ましいなって思って。あの人の場合は毎回作品が違っても、みんな観てくれるじゃないですか。舞台が中世でも現代でも、ファンタジーでも。そういうものは楽しんで観るのに、小説だとこんなに保守的なんだって思い知らされて。その一方で、「古川日出男は毎回違ったものを書く、だからすごい」という人たちも出始めてきて、そっち側に飛びついて、毎回変えることを心掛けちゃったんですね。それはある意味で罠でした。前に書いたものじゃないものを書けばチャレンジしていることになると誤解しちゃったんです。それが現実的に、自分を深く深く傷つけてボロボロにしていくのは4、5年経ってからですけれどね。5年目くらいに「あっヤバイ、俺間違っている」って気づいてきました。
――『サウンドトラック』以降の4、5年の間に出されたのは『ボディ・アンド・ソウル』(04年刊/のち河出文庫)、『gift』(04年刊/のち集英社文庫)、『ベルカ、吠えないのか?』(05年刊/のち文春文庫)、『LOVE』(05年刊/のち新潮文庫)、『ロックンロール七部作』……まだまだありますが、どれも素晴らしかったですよ?
古川 「ベルカ」以降から結構大変なことになっているなと思って。『LOVE』を出して『ロックンロール七部作』を出して。そうすると「ベルカ」ファンの読者にとってたとえば『ロックンロール七部作』はある意味どうでもいい。戦争史とか犬とかマフィアのヤバイ話が読みたかったのに、音楽とかロックンロール史のことなんて関係ない、っていう。そういうことを感じ取ってしまうなかで自分を保っていくのが、正直、だんだん難しくなっていったのかな。
古川日出男(ふるかわ・ひでお)
1966年福島県郡山市生れ。1998年に『13』で小説家デビュー。2001年、『アラビアの夜の種族』で日本推理作家協会賞、日本SF大賞をダブル受賞。2006年『LOVE』で三島由紀夫賞を受賞する。2008年にはメガノベル『聖家族』を刊行。2015年『女たち三百人の裏切りの書』で野間文芸新人賞、2016年には読売文学賞を受賞した。文学の音声化にも取り組み、朗読劇「銀河鉄道の夜」で脚本・演出を務める。著作はアメリカ、フランスなど各国で翻訳され、現代日本を担う書き手として、世界が熱い視線を注いでいる。他の作品に『ベルカ、吠えないのか?』『馬たちよ、それでも光は無垢で』『MUSIC』『ドッグマザー』『南無ロックンロール二十一部経』など。
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「作家と90分」古川日出男(後篇)──「お前は右か左か」と聞かれたときに、上とか下とか全然違うことを言えないと作家じゃない──に続く http://bunshun.jp/articles/-/7490