再び銅街道に戻って北に進むと、すぐに見えてくるのは“廃踏切”だ。さすがに遮断桿は残っていないけれど、遮断機の柱や警標はそのままに残っている。右手は間藤駅方面、左手は足尾本山方面。使われなくなったレールは少し先で川を渡って銅街道の対岸へ向かっている。近づいて見ることはできないが、まだ橋梁もしっかりと残っている。
足尾銅山と歩みをともにした鉄道の歴史
そんな踏切跡には、有刺鉄線やロープが張られており、危険なので立ち入り禁止といった注意看板が立てられていた。その注意看板にはわたらせ渓谷鐵道に加え、古河機械金属の名も。足尾銅山は、明治初期に民間に払い下げられて、1877年には古河財閥の創業者・古河市兵衛の手に渡る。以後、古河鉱業によって開発が進み、明治半ばには日本の銅生産量の約40%を占めるまでに成長した。
この急速な発展の裏では、渡良瀬川下流域での鉱毒汚染や、足尾周辺の山がハゲ山になったことによる下流域での水害頻発などの副作用ももたらしている。また、過酷な労働環境から大規模な労働争議も起こっている。そして、この頃にはまだ鉄道は開通しておらず、産出された銅の輸送も艱難辛苦。桐生方面に向かうにも、また反対に山を越えて日光方面に向かうにも、道幅は狭く人がすれ違うのもやっとだったという。
さすがにそれでは急増した産出量に対応することができず、ケーブルカーや馬車鉄道が設けられている。そして事実上、これらが発展する形で開業したのが、足尾鉄道であった。つまり足尾線、わたらせ渓谷鐵道は開業したときから足尾銅山の銅を運ぶことが最大の役割だった、というわけだ。なお、馬車鉄道は大正末にガソリンカー(つまりバスだ)に置き換わり、足尾の人々の日常の足として活躍するようになる。
「クマ出没注意」の看板が...
さて、このあたりでもう一度廃線跡に戻ろう。
といっても、廃線跡が通っているのは川の向こう。しばらくは、対岸に廃線跡を見ながら歩くことになる。川岸の木々の切れ目から川の向こうを眺めると、確かにそこには線路の跡を見ることができる。足尾線の廃線跡は、ほぼ全線に渡って廃止時のままの姿で残されているようだ。
間藤水力発電所跡の案内板がある脇を抜けて北に歩くと、左に折れて川を渡る橋が見えてきた。橋の入口には、クマが出ますよ、などというおっかない注意書き。もしもクマに出会ったら後ろを向いて逃げると追いかけてくるからうんぬんかんぬんと、ますます恐怖心をあおるような注意も付記されている。