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 そんな橋の向こうには、高いところを渡る廃線の線路が見えて、そのままでっかい建物の中に消えてゆく。その先にはさすがに行くことはできないが、足尾本山駅である。駅そのものが足尾銅山の製錬所(つまり工場)の中にあって、いまも古河機械金属の所有地だ。広大な工場群はまだ形がほぼ完全に残っていて、奥には巨大な煙突も見える。幸いにして対岸の銅街道からそうした工場の様子がよくわかる。

重要文化財に登録されている古河橋(手前)

 足尾銅山は明治時代に全盛期を迎え、その後もしばらくは繁栄の時代を過ごす。しかし、銅が枯渇して産出量が減っていったこと、また安価な輸入鉱石の増加によって衰退してゆく。江戸時代以来続いていた足尾での採銅が終わったのは1973年のことだ。ただ、それ以後も輸入鉱石を用いた製錬が行われ、足尾線も製錬に必要な硫酸の輸送、また生産された銅の輸送も続けられている。

 わたらせ渓谷鐵道の終点の先にある、壮大な製錬工場が役割を終えたのは、1989年のことだ。きっかけは、足尾線がJRから第三セクターのわたらせ渓谷鐵道に移管されて貨物輸送を終えたから。全盛期を迎えたのが明治から大正という、100年以上も昔の足尾銅山。そこにあって活躍した足尾の鉄道の廃線跡が、いまもここまで鮮明に残っているのは、閉山から20年以上も製錬所への輸送で命脈を保ってきたからだ。いまも製錬所の建物ともども、足尾の鉱都としての栄華を物語る産業遺産になっている。

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足尾銅山にいまも残る国指定史跡の「本山製錬所」跡(非公開)

足尾に今も残る「近代化」の夢の跡

 こうして足尾の町を歩いて、思い出したのが夕張だ。夕張も、足尾と同じように鉱山によって栄えた。足尾が銅ならば、夕張は石炭。日本有数の産出量を誇っていたこともよく似ている。そして、そこに通じる鉄道が産業鉄道として産出された銅や石炭の輸送で繁栄したのも変わらない。山間部の渓谷沿いに町が広がっていたというところもそっくりだ。

 そして、どちらの町も役割を終えて久しい。夕張では炭鉱の中心部に続いていたレールはすべて剥がされて、のちに遊園地などができたがそれも閉園。広大な廃墟のような駐車場になっている。その点、足尾はまだまだ工場の跡も廃線跡もそのままに残っている。廃線跡を歩けるように整備してほしい、などという向きもあるだろう。が。こうして取り残されたかつての産業鉄道が朽ちてゆくようすを見せられるというのもまた、歴史の1ページ。日本の近代化を支えた鉱都・足尾の息づかいは、消えゆく廃線に残っている。

写真=鼠入昌史