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本人の協力がないと代理人カードも家族信託も使えない

 あと7本のうちのどれかが正解なのだろうが、失敗を繰り返したら銀行側が不審に思っても不思議ではない。老健からの自動引き落としに関しての書類不備なら、親族の誰かが本人に無断で手続きを進めている、あるいは、本人が認知症を患うなどして判断能力が低下しているのではと思われるかもしれない。すると最悪の場合、本人の財産を守るために口座が凍結される可能性がある。

 この口座は母宅の家賃や電気ガス水道代の引き落とし先であり、年金の入金先でもある。凍結されたら年金も使えなくなるし、ライフラインの支払いも滞る。本人のために動いているのに、本人の生活が詰んでしまう。すると、いよいよこちらの財布を開かないといけなくなるかもしれない。成年後見制度を家庭裁判所に申請する手もあるが、士業が後見人に指定される母が死ぬまで毎月の費用が発生するし、家族が指定されても煩瑣な手続きが課せられることになる。いずれにしても、大変な重荷を背負うことになる。

 背筋が凍ったが、母に尋ねてもやはり「いろいろありすぎて覚えていない」という。うーん。

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 とはいえ、2040年には7人の高齢者のうち1人が認知症を患うと厚労省が推計を出している昨今、銀行側もこうした事態を想定していないわけがない。

 実際のところ、多くの金融機関は本人に代行して一定範囲の金融取引をするための「代理人カード」制度を提供している。しかし、大抵は同一世帯の親族にしか発行されないし、発行するためには本人が窓口に足を運ぶ必要がある。また、いざというときの備えとしては家族と資産を共有する「家族信託」という仕組みも普及しているが、やはり本人が窓口に向かう必要がある。

 結局のところ、家族があくせくしたところで、本人が万が一に備えようと思っていなければこれらの事前対策は選べないのだ。本人の財産なんだから当然といえば当然だ。

 金融機関が用意する制度が使えないのであれば、現実的なのは銀行カードや印鑑を預かって、必要な金額を金融機関から引き落とす方法になる。しかし、その印鑑がどれか分からない状況なのだ(ちなみに、この時点では暗証番号も分かっていなかった)。

 いずれにしても、本人の協力が得られないとお金のやりくりを代行するのは相当困難になる。

口座が凍結されて年金が使えなくなる恐怖

 こうなったら、残る7本の印鑑から正解を引き当てて疑惑の種を摘み取るしかない。

 同じくらいに年季の入った印鑑がもうひとつあったので、そちらで間違いないと思って出し直した。しかし数週間して、また書類が戻ってきたという連絡を老健からもらった。

 連続2回のミス。そして残りの6本の印鑑のうち、どれが正解なのかまったく分からない。いよいよピンチだ。

 覚悟を決めて、近所にある系列銀行の支店に向かった。母は直近の診察でも認知症とは診断されていない。ただ、本人が直接窓口に行って登録印を確認することは状況的に不可能だ。包み隠さず事情を話せば何かしらの方法を教えてもらえるのではないかと考えたのだ。

 2021年、全国銀行協会は認知判断能力が低下した顧客の口座の取引についてこれまでよりも柔軟な対応を求める声明を公表している(※)。そうした背景から、似たような状況の筆者の家族にも寄り添ってもらえるのではないかという期待もあった。

※一般社団法人全国銀行協会「金融取引の代理等に関する考え方および銀行と地方公共団体・社会福祉関係機関等との連携強化に関する考え方について」(2021年2月18日)