「予算配分をめぐって全共闘系の学生たちと、さんざんやり合いましたよ。議論はもちろん、ケンカもしょっちゅうです」
ときには刃傷沙汰に発展することも…日米安全保障条約を巡って、論争やデモ活動に励んでいた1960年代後半~70年代前半の学生たちの喧騒ぶりを、新刊『政治家ぶっちゃけ話 「石原慎太郎の参謀」が語る、あのニュースの真相』(清談社Publico)より一部抜粋してお届け。学生時代は民族派のリーダーであった元東京都副知事の濵渦武生氏が直面した命の危険とは?(全2回の1回目/後編を読む)
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あまりにも危険だった安保闘争の思い出
――1966(昭和41)年4月、関西大学文学部新聞学科に入学した濵渦は、全共闘(全学共闘会議)運動が全盛期を迎えるなかで、彼らに対抗すべく、民族派学生として、反・全共闘の闘士となっていく。
江本孟紀(以下、江本) 濵渦さんは関西大学時代、関西で民族派の学生たちのリーダーだったんですよね。
濵渦武生(以下、濵渦) 当時は70年安保があって左翼学生たちが活発でした。私は彼らに対抗するための民族派の学生のネットワークづくりをやっていたんです。
最初は学内にある「政治問題研究部」に入ったことからですね。部室には国旗が掲げてあり、男子学生たちは詰め襟姿。バンカラだった私の感性に、なんだか合ったんです(笑)。そのあとは学友会自治会の役員になって、3年生のときには書記局長を務めました。予算配分をめぐって全共闘系の学生たちと、さんざんやり合いましたよ。議論はもちろん、ケンカもしょっちゅうです。
1969(昭和44)年6月には全共闘による大学会館の封鎖が始まって構内が無法状態になったこともありました。学内封鎖の翌日に5000人規模の討論集会を学友会としてやったんです。集会のあいだに学外の全共闘が乱入してきて、すさまじい乱闘でした。
江本 あの時代にそこまで戦っていたら、濵渦さんも過激派の学生たちから目をつけられたんじゃないですか。
濵渦 ええ。私と間違えられて学外の連中に拉致されて、リンチされたあげくに指と足をパイプで折られて、顔じゅうをたばこの火で焼かれた友人がいました。
なんとか救出して病院で手術して助かったのですが、駆けつけたお姉さんが泣いていましたね。病院の待合室のテレビに甲子園の松山商と三沢高の決勝戦が流れていた記憶があるから、1969(昭和44)年8月18日か19日だったと思います。一試合目か再試合のほうか、どちらかは覚えていませんが。
江本 濵渦さんも危険な目にあったことがあるんですか。