1994年10月、奥田民生(当時29歳)がソロシングル「愛のために」をリリースした。彼はその前年の9月、7年半続けてきたバンド・ユニコーンの解散をラジオ番組『オールナイトニッポン』の特番で突然発表し、ファンに衝撃を与えた。その後はしばらく休むつもりで釣りに熱中したりしていたが、結局半年もすると曲づくりを始め、同曲でソロとして新たなスタートを切ったのである。それから今年で30年が経った。

奥田民生さん ©三浦憲治

空想とかそういうものが歌詞のメインになってくる

 当時高校生だった筆者には、100万枚を売り上げるヒットとなった「愛のために」以上に、それに続いて1995年1月にリリースされた「息子」のほうが印象深い。それはたぶん、父親が息子に語りかける形で歌われる同曲に奥田の新境地を感じたからだろう。ちなみに当時の筆者は、この曲は奥田が実際に息子を儲けたことからつくられたものだとすっかり思い込んでいたのだが、彼にはそのころ(そしておそらくいまも)息子などいなかったことをあとになって知った。

 考えてみれば、そもそも奥田はユニコーン時代から、サラリーマン経験がないにもかかわらず「大迷惑」や「働く男」などといった曲でサラリーマンの悲哀を歌っていたのだから、こういう曲を書いても何らおかしくはない。むしろ当人は《きっと子供がいたら、作らなかったとは思うんですよね》、《本当にいたら、想像できないじゃないですか。やっぱり空想とかそういうものが、ぼくの場合、歌詞のメインになってくるんで。(中略)いたら最初っから考えもしなかったと思う》と語っているほどだ(『月刊カドカワ』1995年5月号)。

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「愛のために」(1994年/ソニー・ミュージックレーベルズ)

歌詞の意味よりは音の感触が先

 奥田は曲をつくるとき、完全にメロディが先行し、詞はあとからつけていくという。彼いわく《その曲のメロディが、何かの言葉のように聴こえてくるわけですよ。言葉というより音かなあ。“だな”だけとか“なあ”だけとか。ホントそこから詞を発展させてく場合だってある。だから意味よりは音の感触が先。本来のメロディが何を呼んでいるかが大前提なんですよ。バンド時代からもうずっとそれだけ。まあ、聴く人のイメージが広がってくような詞を作るように意識はしてるけど》(『ダ・ヴィンチ』2000年4月号)。