奥田民生が作曲を手掛け、井上陽水が作詞したデビューシングル「アジアの純真」はどのように生まれたのだろうか? 1996年の大ヒットソングが生まれた瞬間、そしてレコーディングに取り組む日々をPUFFYのふたりが振り返った。(全2回の前編/続きを読む

©三浦憲治

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「暇そうなふたりがいた」「暇しててラッキーでした」

――おふたりでユニットを結成したのが1995年。そして96年にデビューという流れですよね。

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大貫亜美 なにを結成とするのかあやふやですけど、先生がやると言ったのは――。

吉村由美 それが95年。

亜美 じゃあ95年結成だね。その前からふたりでちょいちょい遊んでいて、その流れで一緒にやったりはしていたんですけど、その年に先生から声がかかって、PUFFYという名前が付いたんだと思います。

――民生さんは「暇そうなふたりがいた」という理由で、声をかけたそうですね。

由美 ふたりでやろうという話はしていたものの、実際にはなにもしてなかったときに、「同じ事務所(ソニー・ミュージックアーティスツ)に暇してるふたりがいる」って誰かが言ったんですよね。それで一度も会うことなく、声を聞くこともないまま、じゃあやろうということになって。暇しててラッキーでした。

亜美 私は何度か会ったことがあります。由美ちゃんより少し前に事務所に入っていて、私の担当だった新人発掘部署(SD制作部)の方が民生さんと仲よしだったんです。それでユニコーンのライブに連れていってもらって、民生さんに紹介されたのが最初でした。そのとき打ち上げに出て、「すごっ! 未知の世界だ!」と思って。その後も何度かデビュー前にお会いしたんですけど、初めて紹介されたときのインパクトが強かったです。

由美 私は初めて会ったとき、自分が言われていちばん失礼だなと感じることを思いました。「わっ、本物だ!」(笑)。中学生のときユニコーンを聴いていたので、同じ事務所の所属アーティストに民生さんがいて、とりあえずまわりに自慢してたんです。「民生と同じ事務所だよ」って。初めて会うまでは、ずっと呼び捨てだったんですよね。だから最初に会ったときも、心の中で「民生だ!」と思ってました(笑)。

――そんな民生さんから、一緒に音楽をやろうと持ちかけられて、どんな気持ちでしたか?

亜美 ただ「えー! わー! すごーい!」って(笑)。

由美 それがどれだけ大ごとか、よくわかってなかったんですよね。デビューすることの意味もよくわからなかったし、大勢の人たちが関わることも知らなかったので、本当に「わー!」だったよね?

亜美 うん、「わー!」だよ。