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「野村門下生」の功績

 原辰徳は招聘した口うるさいコーチを敬遠し、親しいOBを集める傾向にあり、渡邉でさえ、「原にモノを言えるコーチを入れる必要がある」と嘆いていた。

 私は2012年人事で、巨人の育成を主導してきた岡崎を留任させると同時に、外部の血を巨人の首脳陣に入れることで、データ重視の野村野球を取り入れ、巨人野球とコーチ室の雰囲気を変えたいと考えていた。

野村克也氏 ©文藝春秋

 橋上ら野村門下生の人事の意義はほとんど知られていない。しかし、彼らは私が去った後の巨人で大きな仕事をした。巨人の元広報部長が当時を回顧して、今年10月下旬、フェイスブックにこんなことを記している。

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〈巨人軍に、来季(2025年シーズン)あの橋上さんがコーチで新潟からもどってくる。(中略)2012年、橋上さんが初めて(巨人の)戦略コーチできた年。4月半ばは最下位だった。とにかく打てなかった。遠征先、夜のホテルの踊り場で素振りする選手の姿がめだった。坂本選手の姿もあった。しかし変わらない。

 見るに見かねたのか、橋上コーチが試合直前、選手ごとに、予告相手投手をどうせめるかを図にかきしめしたスケッチブックをもってくるようになる。あの頃、なぜかベンチ入する他のコーチのようなユニフォームを着ていなかった橋上さん。あてがわれていなかったのかもしれない。ベンチにはいらず、サロン室で〉

 プロ野球では、コーチがベンチ入りできる人数は8人に限られており、橋上はそこから外れていたのだろう。だが橋上は記者や観衆の目の届かないところで、チームを変えていく。元広報部長の記述はこう続く。

〈そのスケッチブックで打撃指導をうけた選手の中で早速開花した選手がでてきた。試合直前の橋上詣でがはじまる。いつしか、試合直前のサロン室に毎試合、7、8人の列ができるようになった。その列にはいつも前の方に阿部選手や坂本選手の姿があった。それからチームの快進撃が始まった。選手たちの笑顔が広がりはじめた。岡崎ヘッドが「神さま、仏さま、橋上さま」とちゃかした。

 それを面白くないと思った別のコーチも試合直前のサロンでにわかに個別打撃講習会をはじめたが、いつも1人2人くらいしかならばない。

 そして5月下旬には首位にたっていた。そのまま交流戦初優勝、セ・リーグ優勝、日本シリーズ優勝、アジアシリーズ優勝。橋上さんは、そのあと2回、セ・リーグ優勝を成し遂げた。Ⅴ3と日本一を巨人軍に残し、さっていった。(中略)

 その橋上さんを連れてきたのは、あの清武さんだった。結局、、、、。〉

(文中敬称略)

※本記事の全文は「文藝春秋」2024年12月号と「文藝春秋 電子版」に掲載されています(清武英利「記者は天国に行けない 第35回 悪名は無名に勝るのか」)。

 

記事全文では、高橋由伸氏が清武氏に語った印象的な言葉、当時の原辰徳監督の思惑、清武氏のコーチ人事をめぐる裏での動き、「文句を言うのなら、飛ばすぞ」との言葉が出た渡邉恒雄氏との面談のエピソードなどが語られています。

 

いま「文藝春秋 電子版」に会員登録していただくと、清武氏の連載「記者は天国に行けない」を第1回からお読みいただけます。

文藝春秋

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