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「ネットメディアに対抗して、新聞にできること」東京新聞の元・社会部長が力説した愚直な戦略

記者は天国に行けない 第16回

2023/05/16
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ノンフィクション作家・清武英利氏の連載「記者は天国に行けない 第16回『朝駆けをやめたあとで』」(「文藝春秋」2023年5月号)を一部転載します。

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「医師会とカネ」のスクープ

 駆け出しのころは、来る日も来る日も書いていた。取材した記事が翌朝の新聞に掲載されるのが嬉しくて、夢中で書いた。新聞による権力監視と社会正義の追求を心から信じ、1日に十数人に会った。次から次へと大勢に話を聞いて、頭の芯がぼんやりとしてしまう“人酔い”というものがあることを知った。

 やがて、自分の記事が人を傷つける場合があることに気づき、周囲を見渡せるようになった。「これは書くな」「あの取材はやめておけ」と告げられるようになった。記事をめぐる上司との口論が増えた。

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 主任から部次長へと階段を上がると、横やりはさらに増え、少しずつ取材の現場から遠ざかっていった。取材することよりも、現場から出稿されてきた記事を手直しし、取材の指示を与え、管理するのが仕事になった。

 提灯記事や社業関連の「社もの」記事を苦もなく書き上げる先輩、若い記者に説教を垂れるのがいかにも楽しい、という上司の姿がはっきりと見えてきた。先輩の多くはやがて「書かざる大記者」とか、「伝説の記者」と呼ばれるようになった。あれだけ書く訓練を重ね、苦労して取材先を広げたのに、権力監視役にはほど遠い、新聞社に居る「かつて記者だった人」になった。

 そんな記者の転変や変質を見聞きしてきたので、2021年の9月に、東京新聞の社会部長だった杉谷剛(ごう)が、部下なしの編集委員を命じられたとき、私はすぐに会いに行った。その時点で彼は60歳の定年まで2年を切っていた。彼の異動を左遷と呼ぶ者もいて、一声かけたいと思ったのだ。

 杉谷は、今では珍しい突撃型の特ダネ記者で、識者然としたメガネと円満そうな風貌に反して、上司、先輩、取材先とあたり構わず喧嘩してきたので、「ファイター」の異名がある。

 もともと産経新聞の司法記者だった。だが、泊り勤務で本社に上がり、先輩たちと「天皇の戦争責任」をめぐって朝まで議論した末に、「戦争責任なし」とする先輩たちと大喧嘩し、憤然と東京新聞に転じた反骨者である。

 その硬質の記者が社会部長という堂々たる管理職から一兵卒に転じ、どう変わっていくのか、これから何を書くのか私は興味津々であった。杉谷は東京新聞でただ一人の調査報道担当編集委員に就くという触れ込みだったから、その夜は「新聞でお手並みを拝見しますよ」と言って別れた。

 それから1年半が過ぎた今年3月17日、東京新聞の一面や社会面に彼の署名記事を見つけて、私は目をむいた。「還暦間近の記者がやってるなあ」と思ったのだ。

〈日本医師会の政治団体が麻生派に異例の高額献金 診療報酬改定で関係改善狙う? 21年秋に5000万円〉という記事が、大見出しとともに紙面に躍っていた。彼がしばしば取り上げてきた「医師会とカネ」を巡るスクープで、次のような署名解説が付いていた。

※写真はイメージ ©iStock.com

〈診療報酬のプラス改定を最重要事項とする日本医師会の2つの政治団体から、自民党麻生派に提供された計5000万円の高額献金は、公開義務や量的制限に違法性はないとはいえ、重要な問題をはらんでいる。

 献金は改定率の決定に大きな権限を持つ麻生財務相(当時)が率いる派閥に提供されていた。財務相の在任期間が戦後最長となった麻生氏は退任後も大きな影響力を持っており、献金には改定を有利にしようとする意図が見え隠れする〉

 へえー、と思っていると、2日後に続報が再び一面トップで掲載された。今度は、〈関連団体を設立して5000万円の寄付上限逃れ 小分け、迂回も駆使〉という記事である。

 出し抜かれた他紙は、日刊ゲンダイ以外、これを無視してかかった。高額ではあるが、これらの献金は政治資金収支報告書に記載されているから問題ない、と考えたのであろう。だが、意図のない高額献金があるわけもない。そのツケは国民に回って来る。杉谷は先の署名記事でこうも指摘した。

〈二〇二一年度の概算で四十四兆円に膨らんだ医療費の九割近くは、国民や法人が支払う保険料や税金からなる。今回の高額献金は国民負担が年々増す中で、医療費や補助金の一部が政界に還流する構造を象徴している。その構造は医療政策をゆがめる恐れをはらんでいる〉

 合法的に見える利権の中に、腐敗が潜んでいる。以前にも書いたことだが、事件になれば記事にする、検察当局や警察が捜査に乗り出せば人手をかけて取材する、というのでは、もっぱら当局の動きを伝える広報紙に近い。たとえ事件にならなくても、不可解なカネ、理不尽な支出については記事にして国民に問う、という報道姿勢が新聞の読者をつなぎ留めるのではないか。