「いざって時に人間性が出るよね」
これは、5篇から成る短篇集の表題作「富士山」に出てきた言葉だ。
婚活中の加奈は、マッチングアプリで出会った津山と新幹線で浜名湖に出かけようとする途中、反対車線の車窓からSOSのサインを出している少女に気づく。咄嗟の判断で助けに走った加奈は、自分と行動をともにしなかった津山に失望し、交際に終止符を打つ。それから5ヶ月後、都内で起きた無差別殺傷事件の報道で、加奈は津山の名を目にすることになる。
40歳目前、結婚して子供が欲しい加奈は、早く相手を見極める必要があった。津山の年齢、職業、初対面の印象、そのほか些細な言動には好感を持っていたが、新幹線から富士山が見える席を取るために、わざわざ遅いこだまを予約した彼の拘りには、面倒な人かもしれないと感じもした。更に、津山が咄嗟に人を助ける行動に走らなかったことで、加奈は見極める。この話を聞いた女友達が言ったのが、冒頭の言葉だ。
読みながら、加奈の気持ちにも大いに共感する一方で、咄嗟に動けない津山と自分が重なるところもあった。「いざって時に人間性が出る」けれど「いざって時に」ふがいないのも、また人間だ。私もSNSで偶然知ってはいたが、犯人に気づかれずに出すSOSの手のサインを知っている人は少ないのではないか。知っていても、それをサインだと瞬時に判断して行動に移せるだろうか。何かの出来事だけをもって人間性を判断してしまいがちだが、それでいいのだろうか。
再読すると、また違った景色が見えてくる、人を見る目を問われるような物語だ。
5篇のラストは「ストレス・リレー」。まるでウィルスのように、人から人へと“感染”してしまうストレスの連鎖と、それを断ち切った1人の“英雄”を描いている。帰国前の空港で溜まった些細なストレスを、羽田空港の蕎麦屋の女性店員にぶつけた男性。その店員の母親が、娘の泣き言を聞くうちにストレスが溜まり、同窓会の連絡係からのメッセージを無視する。連絡係の女性は、無視されたことがストレスとなり……と、あちこちで今、この瞬間も起こっていそうなストレスの感染を追跡していく。ウィルスと同様に、知人でなくても、そこに居合わせたために受けてしまう他人のストレスは、時に避けようがないように思える。物語は負の連鎖のように続いていくので、この先にあるのは悲劇なのではないかと、うっすら思ったりするのだが、最後に登場するのは、とてもささやかな“英雄”なのだった。
そう、この英雄は、文学史上類稀なるささやかさなのだ。その上、読者以外、登場人物の誰もが、その人を英雄だとは知らない。
この世界に対しての居方の美しさを、教えられたようだった。
ひらのけいいちろう/1975年、愛知県生まれ、北九州市出身。「日蝕」で芥川賞、『ドーン』でBunkamuraドゥマゴ文学賞、『マチネの終わりに』で渡辺淳一文学賞、『ある男』で読売文学賞、『三島由紀夫論』で小林秀雄賞を受賞。他の著書に『本心』など。
こばしめぐみ/1979年、東京都生まれ。女優として映画、テレビ、舞台などで活躍。文筆業も行い、著書に『アジアシネマ的感性』など。