《しかし、三十三人のガキに手こずっている姿が、テレビという画面に映し出されると、奇妙な味となるのか、負けるつもりの視聴率が、ゆっくりのぼりはじめた。/子供たちの表情が、しだいに生き生きとしてきた。彼らの中にも、この番組を「仕事」として受けとめ、やらねばならないという意気込みが、ようやく生まれてきたようだ》(『武田鉄矢の熱血書き下ろしエッセイ ふられ虫がゆく!』講談社、1982年)
こうした武田の述懐を読むと、『金八先生』はドキュメンタリーでもあったのだと思わせる。それはこのドラマのプロデューサーの柳井満の目指すところでもあったはずだ。その証拠に彼は、制作に際して局側に提出した企画書を次のように結んでいた。
《今のテレビドラマは、俳優の魅力と、この先どうなるかという興味だけで見せ過ぎているかも知れません。このやり方はもう限界にきているでしょう。そこには本当の人間同士のふれあいがないのです。今ドラマに要求されているのは、人間同士のふれあいから生まれる素直な感動かも知れません》(『調査情報』1992年7月号)
どうしても納得がいかなかった展開
柳井とともに『金八先生』を生んだ脚本家の小山内美江子は、その後同作がシリーズとなってからも25年にわたって手がけ続けたが、2004~05年の『金八先生』第7シリーズの途中で降板した。がん闘病が直接のきっかけだが、同シリーズで生徒を麻薬中毒に陥らせるというプロデューサーと演出家の提案にどうしても納得がいかなかったことも一因だと、著書でほのめかしている(『25年目の卒業 さようなら 私の金八先生』講談社、2005年)。シリーズ後半の『金八』もまた「興味だけで見せ過ぎ」たのかもしれない。
第1シリーズの放送から45年が経ち、誕生日が今月27日だった杉田かおる、来月29日の鶴見辰吾をはじめ、当時の3年B組の生徒役の多くが今年、60歳の還暦を迎えた。教師役の俳優には赤木春恵や財津一郎などすでに故人も目立ち、『金八』の生みの親である二人、柳井満は2016年に80歳で、そして小山内美江子も今年5月2日に老衰のため94歳で亡くなった。
『金八』シリーズは2011年3月の特番をもって幕を閉じたが、柳井は晩年、本当の締めくくりとして《死を目前に控えた金八先生が、かつての教え子に思いを馳せるという内容》を前々からやりたいと考えていると明かしていた(『週刊現代』2013年6月1日号)。金八が身をもって命の尊さを示す内容を想像させるこの構想が、もし実現していたとして、それはかつてのあの「愛の授業」のように感動的なものになったのだろうか。