大福を食べて食中毒になった被害者は2000人、亡くなった人は44人…1936年、静岡の学校で起きた「史上最悪の食中毒事件」。真相解明にむけて警察も捜査を始めるも、製造元の和菓子店からは原因となるものが何も見つからない。いったい誰が犯人なのか? なぜ史上、類を見ない食中毒事件が起きたのか? 新刊『戦前の日本で起きた35の怖い事件』(鉄人社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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静岡発「史上最悪の食中毒事件」
1936年(昭和11年)5月10日、静岡県立浜松第一中学校(現・静岡県立浜松北高等学校)で運動会終了後に配られた大福餅を食べた生徒、教員、その家族ら2000人以上が翌日以降に食中毒を発症、44人が死亡する大事件が起きた。真相解明のため駆り出されたのは、第二次世界大戦中に非道な人体実験を行ったとされる731部隊(関東軍防疫給水部)の中心メンバーだった。
「そちらの生徒に食中毒の疑いがあります。心当たりはないでしょうか」
浜松市内の病院から浜松一中に電話が入るのは運動会の振替休日となった同年5月11日のことだ。当直で出ていた教師はすぐに校長に連絡、その後も同様の電話が相次ぐ。
学校側には思い当たる節があった。同校では毎年、運動会終了後に市内の和菓子店「三好野」が製造・販売している紅白の大福餅6個を生徒や教師、保護者らに配布するのが慣例になっていたのだが、これが食中毒の原因ではないかと考えたのだ。しかし、三好野に問い合わせても「ご冗談でしょう。絶対に大福ではないですよ」とまともに取り合ってもらえない。確かに、運動会当日は好天だったものの季節はまだ5月。教室に置いている間に傷んだ可能性は低いと思われた。
しかし、時間の経過とともに中毒者は増え、翌12日は全生徒の3分の2に当たる660人が欠席。学校は13日から臨時休校とする。一方、所轄の浜松警察署は大福を製造した三好野で検事立ち会いのもと現場検証を実施。
同店に“打粉”を卸していた業者と“白あん”を納入していた業者を取り調べる。このとき警察が特に不審視していたのが中毒症状の重さだ。軽症者は38℃から39℃の熱と下痢や嘔吐だったが、重症者になると熱は40℃を超え、下痢や嘔吐に加え、痙攣、意識混濁など深刻な状態に陥っていた。浜松では過去にも食中毒事件が起きていたが、これほどの惨状は初である。
そのため警察は毒物混入も視野に入れ捜査を開始。疑いを向けたのは三好野を解雇され恨みを持った元従業員、繁盛する三好野を妬む同業者、浜松一中に憎しみを抱く者など。警察は三好野の店主夫婦や職人らを呼び事情聴取を行うが、犯罪に繋がるような手がかりは皆無。さらに大福を検査しても危険な毒物は見つからなかった。
そんななか、ついに恐れていた最悪の事態が起きる。12日、重症の15歳の男子生徒が死亡したのだ。