1936年(昭和11年)5月10日、静岡の学校で起きた食中毒事件。当初、警察は原因となる大福の製造者関係をあたるも、容疑者はなかなか見つからない。なぜ2000人が食中毒を起こし、なぜ44人もの人々が命を失うことになったのか? 当時の陸軍まで調査に参加した同事件の顛末を、新刊『戦前の日本で起きた35の怖い事件』(鉄人社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/最初から読む)
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食中毒で死亡続出…「悪夢の12日間」
そんななか、ついに恐れていた最悪の事態が起きる。5月12日、重症の15歳の男子生徒が死亡したのだ。が、これは始まりに過ぎず、同日夕方から学校へ続々と訃報が届く。その数、なんと16人。さらに生徒の家族にも続々と死亡者が出て小学生5人、未就学児1人、母親1人の計7人が絶命。
こうして悪夢のような12日が終わるが、翌13日、4月まで三好野で働いていた27歳の菓子職人の男性が捜査線に浮上。男の周辺では盗難事件が頻発しており、店主が問い詰めたところ激怒し自ら店を辞めていた。警察は動機を持つ者として男の下宿先を急襲、重要参考人として徹底的に追及する。
一方、遺体から手がかりを探るため名古屋医大(現・名古屋大学医学部)から法医学専門の教授が呼ばれ司法解剖に当たる。対象となったのは最初に亡くなった15歳の生徒で、胃や腸、肺などを綿密に調べるも特に異常なし。結果、人為的な毒物混入事件の可能性は低いことだけが判明する。
警察もすでに事件は食中毒の線に狙いを定めつつあった。連行した元従業員に完璧なアリバイがあったこともさることながら、この頃、浜松一中と関係ない場所で中毒患者が出てきたのだ。範囲は広く、市内の小学生60人、織物工場の女工60人、浜松市役所の職員とその家族30人、陸軍の軍人40人など年齢も場所も様々。共通していたのは運動会当日に三好野で大福を購入していたことだ。
実はこの日、三好野では小学校に納めるはずだった大福約250個が余ったため、店頭でも販売していたのだ。最終的に中毒者は生徒883人、生徒の家族1161人、職員21人、職員家族51人の計2116人。そのうち生徒29人、生徒家族15人の合計44人が命を落とす。