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「大河ドラマの主人公」が活躍した時代

宝暦以降の吉原遊廓は、元吉原以来から続いた伝統やシステムが一変した時代である。1750(寛延3)年に生まれた蔦屋重三郎は、吉原の転換が進んだ宝暦期にはまだ幼少である。まさに転換期の吉原に生まれ育った。

吉原遊廓の衰退と転換の一因は、岡場所や品川・内藤新宿などの宿場の女郎屋が台頭してきたことにある。吉原よりも安価で遊べたのと併せて、岡場所の場合には江戸市中にあったため、通うのにも便利だった。面倒な格式や制度もないため、元禄のバブルがはじけて以降、経済的に退潮ぎみの世にあっては、自然と岡場所に客が流れていった。

豪遊する大名や豪商も少なくなり、吉原もより大衆化路線に舵を切らざるを得なかった。多額のお金がかかる揚屋制度を廃止し、太夫の位もなくなった。紋日も大幅に削減することで、客の負担も軽くした。また、商売敵である非公認の岡場所に対して、吉原側は町奉行に取り締まりを要請したりもした。

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松平定信の寛政の改革下では、岡場所に徹底的な取り締まりが行われた。このときに捕らえられた岡場所の私娼たちは、そのまま公許の遊廓である吉原に引き取られた。

しかし、これによって、ますます吉原の質は低下することとなった。元私娼が増えたことで、吉原の格式もより薄れてしまったのである。

そのような時代に、吉原で本屋を始めた蔦重は、出版を通じて、衰退しつつある新吉原を盛り上げていった。吉原細見の改良、吉原を舞台とした洒落本・黄表紙の大量出版、喜多川歌麿の美人大首絵を通じて遊女のイメージアップを図ったのである。こうして、吉原遊廓は多くの人が一度は行ってみたいと憧れる遊興の地となったのである。

江戸時代を通じて18回も全焼した

木造の家々がぎっしりと軒を連ねた人口過密の江戸は、たびたび大火に見舞われた。江戸市中の郊外にある吉原遊廓も例外でなく、火災によって全焼することもしばしばであった。1657(明暦3)年の新吉原の開業以来、1768(明和5)年4月の火災を皮切りに、幕末の1866(慶応2)年11月の火災まで、江戸時代を通じて合計18回もの全焼を経験している。