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頻発する吉原での火事は、類焼もあるが、妓楼が火元となったケースも多かった。その多くが、遊女によるつけ火だったという。苦界のつらさに耐えかね、火を放ったのだろう。なかには、楼主や女房からのひどい仕打ちに耐えきれず、複数人の遊女が共謀で火をつけたこともあった。

放火犯は「火炙り」に処せられたが…

江戸では放火は大罪であり、たとえ小火でも、犯人は火罪(火炙り)に処せられた。しかし、吉原での遊女によるつけ火の場合には、火罪ではなく、流刑(遠島)に減刑されていた。苦界のつらさに耐えかねた遊女に対する、奉行所側の情状酌量であったと思われる。

火事で営業ができなくなった場合、町を再建するまでに、期間を決めて浅草や本所、深川、中洲などで仮営業をすることが幕府から許可されていた。これを仮宅と呼ぶ。仮宅は江戸市中で営業したため、普段の吉原よりも通いやすかった。また臨時営業であるため、吉原独自の格式や伝統も簡易化され、遊女の揚代もディスカウントされた。

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仮宅の調度品もあくまでも仮のもので、経費もかけずに営業できたため、むしろ商売は繁盛したという。

「人参10本分の価格」で体を売る非合法風俗

江戸には幕府公認の吉原遊廓以外にも、さまざまな遊里があった。無認可の遊里は岡場所と呼ばれた。時代によって変遷はあるが、江戸市中だけでも40~50カ所の岡場所があったとされる。無認可営業であるため、そこで働く遊女は私娼であった。

江戸市中に点在したことから通うのにも便利で、かつ安価に遊ぶことができた。幕府もほとんど黙認しており、下級武士や江戸庶民の間で人気を博した。

岡場所のなかでも、最も安く遊べたのが、切見世と呼ばれる盛り場である。浅草堂前、あひる入江町、根津、音羽の桜木町などで無認可営業が行われた。長屋と同じく、狭い路地の両側に間口4.5~6尺、奥行2.5~3間ほどの店が軒を連ねた。まさに、俗に言う「ちょんの間」である。10分の情交で揚代はわずか100文程度だ。これは当時の人参10本分に相当する価格である。野菜と同じ値段で体を売る切見世の遊女らは、その揚代の価格から「お百さん」とも呼ばれたという。