吐けるものがなくなっても吐く…壮絶な入院生活
――手術まで1週間しかない中で、そこまで考え抜かれたわけですよね。
長藤 運に任すというか、もはや“賭け”ですよね。それまで全身麻酔の手術も一度もしたことがなかったんですけど、手術の怖さより、子どもを持つ可能性が残せるのかどうかだけがずっと気になっていました。だから、手術が終わって麻酔から目を覚ましたとき、先生から「きれいに片方残せましたよ」と言ってもらったときは、安堵の涙が止まりませんでした。
そうして卵巣は残せましたが、結果的に卵子がどれくらい残ってくれるかは祈るのみ、という状態で抗がん剤治療に入りました。
――抗がん剤の副作用は厳しかったですか。
長藤 数ある薬の中でもトップクラスに副作用の強い抗がん剤だったんですけど、何かを握りしめてないと吐き気に耐えられなくて、病院のベッドの柵をへし折るんじゃないかってくらい強く握りしめて過ごすしかできませんでした。
朝なのか夜なのかもわからないけど、そんなこともどうでも良くなるぐらいずっと気持ち悪くて、吐けるものがなくなっても吐くような生活でしたね。
――ご飯は食べられていたのでしょうか。
長藤 薬の影響で味覚障害も起こしていたんですけど、病院食特有のとろみと生ぬるい感じがダメで、一切ご飯を受けつけなくなっていました。
唯一、カチカチの冷やご飯ならギリギリ食べられるときがあったので、コンビニで賞味期限が切れる寸前のおにぎりを冷蔵庫でさらに固くしてもらって、それを食べられるタイミングで食べる、というか飲み込む感じでした。
あとは薬が強いので、体内に貯めないようにお水をたくさん飲んでくださいと言われていたんですけど、水を飲むのも苦しいんですよ。だから、ただただ、ペットボトルとにらめっこして過ごすような4カ月間でした。
「ほとんど卵子は残ってないです」と言われて涙が止まらず…
――抗がん剤治療は4ヶ月で終了できたのでしょうか。
長藤 その段階で14万あった腫瘍マーカーの数値が1ケタまで下がっていたので、ここで一旦寛解という診断をいただいて、予定よりもだいぶ早く終われました。
同時に私がずっと恐れていたのは、抗がん剤の影響で妊娠できなくなることだったので、寛解と言われても晴れやかな気持ちではなかったですね。
――卵子の状態がわかったのはその先のこと?
長藤 抗がん剤治療が終わって3カ月後くらいに検査をしたんですけど、「ほとんど卵子は残ってないです」と言われました。数で言うと50代女性ぐらいの卵子の数しか残っていないので、基本的に自然妊娠は難しい、ということでした。
――それは大きなショックでしたね……。
長藤 ちょうどその時期、色んな方に復帰祝いをしてもらっていたんですけど、帰り道は涙が止まらなくて。もしかしたらあのときが一番つらかったかもしれないですね。子どもを持つ可能性を残すことだけが頼みの綱というか、そこにすがる気持ちで治療に耐えていたので、本当にこたえたんです。
ただ、その宣告が彼と結婚するきっかけにもなりました。
撮影=細田忠/文藝春秋
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