作家になりたいと思っても、実際に活躍しているのはごく一部の人たちで、非常に狭き門です。新人賞を取ってデビューする人は、今1年間に100人以上いると言われていますが、その中で5年後に生き残っている人はほとんどいません。その最初の100人に入るまでにも、数えきれないほど多くの人たちが落選しています。
初めて応募した自信作が一次選考にも通らなかった
でも、私は、すごい身の程知らずなんですが、小学生のときに、自分にもハリー・ポッターのようなものがすぐに書けると思っていたんです(笑)。なんなら小学生のうちに作家デビューしてやろうかと思っていたくらいでした。ところがまぁ、実際に書いてみると、全然思うように書けないんですね。あれっ? おかしいな、と思いながらも書き続けて、ようやく自分の納得のいくものを書きあげたのは、中学3年生の時でした。それが初めて新人賞に応募した『麒麟児』という作品です。これをある出版社のライトノベルの賞に応募したんですね。
結果はどうだったか。1次選考すら通りませんでした。その時に初めて、自分が思っていたよりもこの世界は難しいのかもしれない、ということを知りました。
こうして言葉にすると、ほんの数十秒で経過を説明できちゃいましたが、小学校1、2年生のころから作家になりたいという思い続け、中学3年生になるまで10年間ずっと小説を書き続け、ようやく自分の中で過去最高のものが書きあがった。これならいけるだろうと思って満を持して応募したものが、1次選考にも引っかからなかった。そこでようやく目が覚めました。
高校時代のショックな出来事
その後、私はこの前女(前橋女子高校)に入学します。自分の書くものは果たして世の中に出して通用するものなんだろうか?という悩みの中にいた私に、更にショックなことが起きます。とある詩のコンクールで佳作に入っていた作品が、金子みすゞの詩のパクリだったのです。あんな有名な詩人の作品が、アマチュアの人が応募するコンクールで佳作にしかならないということもショックだったし、当時中高生だった私ですら盗用だとすぐにわかった詩を、選考委員が誰一人気づかなかったということもショックでした。それまでは、いいものを書けば評価されると思っていたけれども、その信頼が揺らいでしまった。私、いったいどうしたらプロの作家になれるんだろう? その頃は五里霧中でした、ほんとうに。
10年前の今日、人生が変わった
それで、実は10年前の今日(4月25日)、まさにこの日が、私にとって人生が変わった日だったんです。今日は開校記念日の講演会に呼んでいただいたわけですが、10年前にここで話をされたのが、文藝春秋という出版社の編集者で、前女の卒業生だったんですね。ご存じない方のために説明しますと、文藝春秋というのは、芥川賞や直木賞などの文学賞を主催している日本文学振興会の母体の老舗出版社なんです。その方が話し終わって、校長室に行ってしまったときに、ああ、行ってしまう、もっと話を聞きたいと思いました。その時に背中を押してくれたのが、友人たちでした。
当時から私はずっと「プロになりたい、プロの作家になりたい」と言い続けていたので、部活や掃除や帰りの会などが山ほどあったのに、「いいから、いいから。うまくやっておくからお前行ってきな」って言ってくれて、ありていに言うとぜんぶサボりました(笑)。でも、サボってよかったです。今でも、校長室のドアの形をよく覚えています。なかなか中に入れないでドキドキしているときに、中からドアが開いて、その方の旦那さんが出てきて「あれっ君どうしたの? 何か話聞きたいの? だったら入りなよ」って言ってくれて、私は校長室に入りました。
16歳のときの決心
校長室では、私がいかに作家になりたいか、どんな本が書けるのかという思いの丈をぶつけたのですが、もう何時間も校長室で話をしていたので、下校時間になってしまったんですね。そしたら、その方が「じゃあ、もう少し話を聞いてみたいからご飯に行きましょう」とご飯に連れていってくれて、夜になるまで話を聞いてくれたんです。そして、最終的に言ってくれたのが、「阿部さん、もしあなたが本気でプロになりたいのなら、松本清張賞に応募してみたらどうでしょう」という言葉でした。16歳、高校2年生になったばかりのときのことです。
そうして一大決心し、当時持てる力の全てを注ぎ込んで書き上げたのが、一昨年刊行した『玉依姫(たまよりひめ)』(2018年5月10日文春文庫より文庫版発売)の原型となる作品でした。