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 それで全く勉学意欲を無くしてしまったのである。毎朝10時前には高校に近いパチンコ屋に必ず足を運んだ。開店に合わせて顔を出す。時間つぶしといいながら、ずいぶんと律儀なものだ。

 パチンコ屋での悪さの中身を、軽く紹介しておく。当時のパチンコ台は上が斜めに傾いて向こうに沈むようになっていた。釘は先が広がっているものの、根元は皆同じサイズだ。玉を入りやすくする一番簡単な方法は、台の底を足で蹴ってへこませることだ。こうすることで、台がこちらに浮き上がってくる。

 玉はガラスに当たるようになる。勢いを止められてしまうわけだ。玉は跳ねずに真下に落ちる。結果として穴に入る。パチンコの穴はセンター、右、左に空いている。右の釘が緩く、他は締まっているとしよう。右に玉を集中させれば、その分当たる確率が高くなる。

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 許も連れもガタイは良かった。台を蹴るのはお手の物。面白いほどよく入った。店員に見つかると、当然のことながら揉めたものだ。

「闇社会の帝王」と呼ばれた許永中 ©文藝春秋

「この沿線で一番強いんは、ワシや」私大に通う大学生を恐喝

 高校2、3年生にとって当時の4000円、5000円はかなり大きかった。昭和32年に、フランク永井が「13800円」という歌を歌っている。当時の平均月給がそれであったのだろう。その3分の1から半分近い金額を数時間で稼ぎ出す。子供にとっては十分な上がりだ。

 とはいえ、パチンコで儲けても、その頃の彼にとっては小遣いの足しにもならなかった。こんなことを明かすのもみっともないが、当時すでにシノギの中心は恐喝だったという。

 ただし、恐喝の標的は、大学生と決めていた。沿線の私大に通うお洒落なファッションに身を包んだ兄ちゃんたち。どれくらい腕に自信があるのか知らないが、意気がっている奴らが大勢いた。ちょうど自己顕示欲に目覚める年頃ではある。

 電車に乗り込むと、ギラギラした目と視線が交わることがたびたびあった。